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まいかのあーだこーだ

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2025.04.27
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NHK日曜美術館「雪舟から若冲へ〜相国寺文化圏」を見ました。



伊藤若冲については、
2021年のドラマ『ライジング若冲』のときに、
相国寺の禅僧だった大典顕常との交流や、
相国寺への「釈迦三尊&動植綵絵」の寄進などが描かれましたが、
https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202101060000/
https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202407180001/


相国寺がどんな寺かはまったく知りませんでした…(^^;



相国寺は、
京都御所と室町幕府のすぐそばにあり、
室町時代には文化庁と外務省を兼ねるような場所だったと。
それは当時の禅僧が外交官の役割を果たしてたから。

そこで栄えた相国寺の文雅は、
室町の「五山文化」の一角を担うものの、
応仁の乱で完全に途絶えてしまう。

…とはいえ、

相国寺の山外塔頭にあたる銀閣寺(慈照寺)の、
東求堂同仁斎での2度の書画展などをとおして、
影響は300年後の与謝蕪村や池大雅や伊藤若冲にも及んでる。


五山文学は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学である。宋元禅林においても文学が占める位置は非常に大きかったが、入宋僧や入元僧らにより、その禅風が日本に伝来すると、日本の禅林においても文学志向が高揚することとなった。室町時代に入ると、鎌倉五山や京都五山(京五山)では、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い、四六文を用いた法語や漢詩を作る才が重視されたことも関係して、五山文学が栄えることとなった。五山文学こそは、五山文化の中心であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/五山文学
永徳2年(1382年)、室町幕府第3代将軍足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願した。義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。至徳3年(1386年)には義満によって京都五山と鎌倉五山が改めて制定され、相国寺は京都五山の第二位に叙されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/相国寺
元の渡来僧である一山一寧の門下からは、虎関師錬を筆頭として数多くの五山文学(日本の禅僧による漢詩文)の逸材が出たが、夢窓疎石もまたその一人に数えられる。生涯に数多くの弟子を持ち、規模の面から言えば当時の五山中最大の派閥だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/夢窓疎石


応仁の乱の直前に描かれた文清の「湖山図」。




若冲は、
相国寺に「釈迦三尊&動植綵絵」を寄進しただけでなく、
相国寺の山外塔頭である金閣寺(鹿苑寺)に、
襖絵(大書院障壁画)も描いてるのですね。

そう考えると、若冲には、
江戸の町人文化のなかで生まれた北斎などとは違って、
公家文化・武家文化の要素もあるんだなと思いました。





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最終更新日  2025.05.09 06:55:31


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