カテゴリ:北斎と葛飾応為の画風。
NHK日曜美術館「雪舟から若冲へ〜相国寺文化圏」を見ました。
◇ 伊藤若冲については、 2021年のドラマ『ライジング若冲』のときに、 相国寺の禅僧だった大典顕常との交流や、 相国寺への「釈迦三尊&動植綵絵」の寄進などが描かれましたが、 https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202101060000/ https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202407180001/ 相国寺がどんな寺かはまったく知りませんでした…(^^; ◇ 相国寺は、 京都御所と室町幕府のすぐそばにあり、 室町時代には文化庁と外務省を兼ねるような場所だったと。 それは当時の禅僧が外交官の役割を果たしてたから。 そこで栄えた相国寺の文雅は、 室町の「五山文化」の一角を担うものの、 応仁の乱で完全に途絶えてしまう。 …とはいえ、 相国寺の山外塔頭にあたる銀閣寺(慈照寺)の、 東求堂同仁斎での2度の書画展などをとおして、 影響は300年後の与謝蕪村や池大雅や伊藤若冲にも及んでる。
五山文学は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学である。宋元禅林においても文学が占める位置は非常に大きかったが、入宋僧や入元僧らにより、その禅風が日本に伝来すると、日本の禅林においても文学志向が高揚することとなった。室町時代に入ると、鎌倉五山や京都五山(京五山)では、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い、四六文を用いた法語や漢詩を作る才が重視されたことも関係して、五山文学が栄えることとなった。五山文学こそは、五山文化の中心であった。
応仁の乱の直前に描かれた文清の「湖山図」。 ![]() ◇ 若冲は、 相国寺に「釈迦三尊&動植綵絵」を寄進しただけでなく、 相国寺の山外塔頭である金閣寺(鹿苑寺)に、 襖絵(大書院障壁画)も描いてるのですね。 そう考えると、若冲には、 江戸の町人文化のなかで生まれた北斎などとは違って、 公家文化・武家文化の要素もあるんだなと思いました。
![]() ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025.05.09 06:55:31
[北斎と葛飾応為の画風。] カテゴリの最新記事
|
|