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まいかのあーだこーだ

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2025.05.14
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NHK「ブラタモリ」伊勢神宮への旅を見ました。

それより前に、
テレ東の「ザキヤマの街道歩き旅」でも、
ザキヤマ&くりぃむ有田&井桁弘恵が、
2日かけて伊勢路(伊勢街道)を歩いてました。
途中からは柏木由紀も加わってた。


ブラタモリでは桑名から内宮まで。
https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ


ザキヤマ街道では津から内宮まで。
https://www.tv-tokyo.co.jp/sat/backnumber/index.html


ザキヤマたちのように、
津から伊勢までを2日で行くコースは、
さすがに徒歩じゃキツそうだったけど、
車やバスならちょうどいいと思う。

レンタルできるなら自転車で行くのも楽しそう。

ただ、外宮と内宮を、
最後の数十分で回るのは無理がある…(^^;
参道沿いのお店で食事や買物もするなら、
あと1〜2日は欲しいです。





これまでにも、
内宮や外宮を紹介する番組は見たことあるけど、
伊勢街道を紹介する番組ははじめてだったかも。

岸辺露伴の『密漁海岸』にかかわる阿漕ヶ浦とか、
萩尾望都の『斎王夢語』の舞台になった斎宮とか、
個人的に興味をひかれる場所がいろいろあります。



1.津波で消えた阿漕の港

ブラタモリでは、
阿漕ヶ浦をスルーしてましたが、

ザキヤマ街道では、
海鮮食堂で貝の盛り合わせを食べてました。


阿漕にも水神の市杵島姫。
北畠家の守護神だったらしい。

阿漕の港は、
本来は「安濃津あのつ」と言って、
ここが津市の町の発祥地だそうですが、

能の演目にもなってるとおり、
神宮御用達の禁漁区で密漁をしたアコギな男が、
海に沈められたという伝承があります。

でも、この男は、
病気の母にヤガラという魚を食べさせるため、
やむをえず密漁をした孝行者だったらしい。

つまり、
村民の漁を禁じる悪政がもたらした悲劇なのね。



そんな阿漕の港は、
明応地震の津波で消滅してしまった。
室町時代に発生した南海トラフ地震です。

なお、伊勢神宮に奉納するアワビは、
今も昔も南側の鳥羽市国崎で採られてる。


2.豪商小津家と松阪牛

松坂は、
江戸時代の街道沿いで発展した商人の町。
幕末以降に松阪牛をブランド化したのも、
この町の人々の商才ゆえだそうです。

ザキヤマたちも回転焼肉を食べてましたが、

ブラタモリでは、
高級店のすき焼きを食べる前に、
小津安二郎の父方の本家を訪ねてました。

小津家は和紙&木綿で財を成した豪商。
本居宣長も小津家の人です。


三井をはじめとする松坂の豪商の多くは、
江戸の日本橋にも店を出してたらしいけど、

Wikipediaによれば、
分家にあたる小津安二郎の父方も、
代々、日本橋の店を営んでたようです。

だから、小津安二郎は、
東京の深川に生まれて、
小学生のときに本家がある松阪に転校してる。


3.斎宮と古代の伊勢路

ザキヤマ街道とブラタモリでは、
訪ねた場所がぜんぜん違ってましたが、

唯一、重なってたのが斎宮跡です。

ブラタモリでは、
斎宮博物館で斎王役の女性に対面。

ザキヤマ街道では、
博物館に隣接する歴史体験館で、
小弓こゆみという弓遊びのゲームをしてました。
井桁弘恵が的を上手に射抜いてた。



タモリが斎宮や斎王を知らなかったのは意外ですが、
そもそも斎宮跡が見つかったのは1970年のことで、
研究がはじまったのは、わりと最近なのね。

そこから考えると、
萩尾望都がいちはやく斎王の物語を書いたのはさすが。
タモリも萩尾望都も福岡出身。




なお、江戸時代の伊勢路は、
江戸と伊勢を結んだ街道なわけだけど、

それ以前の伊勢路は、
京都や奈良の都と伊勢をつなぐ直線の広い道で、
その途中に斎宮があったのですね。


4.禊の川と恵み&水運の川

ブラタモリを見てて思ったのは、
この地域で重要なのは川だってこと。

伊勢の外宮は、
アマテラスの食事をつくる豊受大神を祀るために、
内宮の創建から約500年後に、
土宮つちのみやのある場所に建てられたらしいのですが、
※ただし、Wikipediaには多賀宮のほうが先と書いてある。


もともと土宮は、
西側に流れる宮川を御神体にしてたっぽく、
西を向いて祈らせるべく東向きに建てられてる。



内宮は、
倭姫命が御裳を濯いだ五十鈴川沿いにあり、
その川は現在も禊の場になってます。

外宮(豊受大神宮)は、
上記のとおり宮川沿いに建てられ、
その川(本来の名称は「豊宮川」)を禊の場にした。

斎宮は祓川沿いに建てられて、
その川が斎王の禊の場だったようです。

ザキヤマ街道では、
祓川の本流にあたる櫛田川の渡し跡も訪ねてましたが、
これは斎王が倭姫命にならって櫛を捨てた川。

いずれにしても、
神を祀るには清流が必要ってことよね。


ブラタモリによれば、
鈴鹿サーキットのなかに池があるのは、
大地から流れる水で平野を潤すためでした。

伊勢街道の各宿場でお饅頭が名物なのは、
大地が茶どころで、平野が米どころだったから。

一方、
徳川御三家の紀州藩が整備した白子港は、
海と川をつなぐ水運によって物流拠点になった。

当然だけど、
産業にとっても川は重要な役割を果たしてます。


5.中央構造線

夫婦岩のそばには中央構造線が走ってるのですね。
それが伊勢平野の南縁になってる。

朝日の昇る方向に富士山が見えるとは驚きでした。

富士山から伊勢までは、
伊勢湾を迂回すると300kmの距離だけど、
直線距離なら約200kmだそうです。

かつての都の人たちも、
伊勢に来れば富士山を拝めたわけですね。


6.津市のゴーちゃん

ザキヤマ街道では、
ご当地キャラの「ゴーちゃん」が登場してました。

江姫が、
伊勢上野城や安濃津城(津城)で過ごした、
…という伝承にちなんでるらしい。

しかし、Wikipediaによれば、
この伝承はすでに否定されてるようです。
残念!!…(^^;

織田信包は母の土田御前や妹のお市の方、姪の茶々、初、江を引き取り、この津城もしくは伊勢上野城(伊勢国)で保護をしていたとされてきた。しかし、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、お市と三姉妹が滞在していたのは守山城であることが証明されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/津城


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最終更新日  2025.05.18 03:54:31


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