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カテゴリ:岸辺露伴と小泉八雲。
つげ義春が亡くなりましたが…
カルト漫画作家が90才近くで死去したニュースなど、 小さな死亡記事が出て終わりかと思ったら、 大手紙の扱いが予想以上に大きいので驚きました。 奇しくも、ここ数年で、 国際的な評価が高まってたわけですが、 その反映なのかしら?? 2018年 ごく少数の例外を除いて長年拒否し続けてきた海外翻訳出版を「断るのが億劫になった」ことを理由に許可するようになり、韓国、スペイン、イタリア、スイス、アメリカ、フランスなどの出版社と契約する。
◇ わたしは、 小泉八雲や水木しげると出雲文化圏との関係を、 以下の記事からずっと探ってきたのだけど、 https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202208290000/ たまたま今回の報道が、 朝ドラ「ばけばけ」終了のタイミングだったせいで、 小泉八雲→水木しげる→つげ義春 …みたいな縦軸の系譜にも興味を抱きました。 しかし、ネットを検索してみても、 全共闘=アングラ演劇=関西フォーク=ガロ …みたいな横軸の話ばかりで、 縦軸の系譜を考えようとする人は皆無です。 実際、団塊世代の文化は、 やはり同時代の横軸で語られがちだし、 わたしには実感として共有するのが難しい。 わたしの関心に結びつく要素があるとすれば、 寺山修司と初期ニューミュージックの関わりとか、 最近の葛飾応為のブームが、 ガロ系の林誠一・杉浦日向子などに発してるとか、 そのあたりの話に限定されてしまう。 ◇ 八雲の作品が「再話文学」であるのなら、 水木とつげの作品は「再話漫画」じゃないか? …って気もするのよね。 つまり、 語る側と聴く側との関係において、 解釈や記述がおこなわれる形式のことです。 八雲が妻セツの語りを聴き、 水木がのんのんばあの語りを聴いたように、 つげは水木の語りを聴いた可能性があるから。 1966年、『少年マガジン』で連載を始め人手が要った水木のアシスタントをすることになり、調布に転居。日当2千円という破格の報酬であり、『ゲゲゲの鬼太郎』のネームに苦しんだ水木に呼ばれ2人でオチを考えたこともあったという。 つまり、 境港での妖怪体験についても、 ラバウルでの戦場体験についても、 つげによって解釈・記述された面がある。 戦争についていえば、 つげ自身も空襲・疎開・戦後社会の体験者ですが。 ◇ 八雲・水木・つげには、 身体的欠損というテーマがあります。 八雲は少年時代に左目を失明。 松江では一畑薬師に祈願して、 旅館の女中お信の眼病を回復させたけど、 彼自身の左目の視力は回復しえません。 一方、 水木にとって一畑薬師は身近であり、 たとえば鬼太郎は生後すぐに左目を失うものの、 それは父親が目玉おやじとして蘇ることで回復します。 しかしながら、 水木自身が失ったのは左目ではなく左腕なので、 これも一畑薬師や目玉おやじによっては回復しえない。 そして、つげの『ねじ式』の、 「メメクラゲ(××クラゲ?眼眼クラゲ?)」のエピソードでは、 主人公がクラゲによって左腕の静脈を損傷するものの、 あたりには目医者しかないために左腕が回復しないのです。 回復しない身体的欠損についての象徴表現が、 「八雲→水木」「水木→つげ」の系譜のなかで受け継がれる。 (わたしの意見ではありません) ![]() 妖怪にせよ、戦争にせよ、 八雲・水木・つげの作品に共通するのは、 日常と異界が同居する感覚であり、 そこでは必然的に、 恐怖がユーモアと共存するってことです。 様式的には、 ひとつの画面のなかに劇画と漫画が同居し、 子供向けのファンタジーのなかに、 大人向けのリアリズムが紛れ込んでしまう、 …ってことでもある。 恐怖とユーモアが、 大人にも子供にも平等に開かれて、 そこでの不安定な日常感覚が、 シュールで奇妙な笑いを生み出すことになる。 石子順造は "存在論的反マンガ" と呼び「自然と人間が同じ位相にあり、つげは日常のただなかにある奈落を見ている。つげの漫画は狂猥な現代の文明状況の中で生まれ死ぬしかないぼくらの生の痛みと深くつながっている」とし、つげ作品を読むことは「恍惚とした恐怖の体験をすること」だとした。 ![]()
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最終更新日
2026.03.31 15:06:39
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