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まいかのあーだこーだ

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2026.04.09
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カテゴリ:メディア問題。
なにやらポピュラー音楽界隈で「内在批評 vs 外在批評」が話題らしい。

◇ 

一般的に、内在批評は文化レベルを押し上げるし、音楽制作者にとっての勉強にはなるだろうけど、高い専門性を要するぶんだけ、一般リスナーの批評言語はかえって貧困になりがちよね。
それに、内在批評ばかりが優勢になると、ポピュラー音楽のシステムや時代性を成り立たせる外的条件に対してミュージシャンは無自覚になると思う。さらにキャンセルカルチャーとの関連でいえば「作品さえよければ作者も免罪される」みたいなガラパゴス的な価値観にも陥りやすい。それを避けるためにも、ミュージシャンが一定の外在批評にさらされるのは必要です。

◇ 

ちなみに、この対立は、
古くはドイツの「絶対音楽 vs 標題音楽」の論争にはじまります。

純粋に聴覚的な形式美だけで成立するのが絶対音楽。かたや主題や物語や視覚描写などに従属するのが標題音楽。ベートーベンでいえば、第5番の「運命」が絶対音楽で、第6番の「田園」が標題音楽ってことになる(「田園」の表題は本人がつけたものだけど、「運命」は本人がつけたものじゃない)。文学でいえばロマン派と自然派の対立に似てるかもしれない。
ただし、この対立図式は、音楽作品そのものを2分するというより、むしろ音楽の扱い方(批評の姿勢)を2分するものと考えるほうが正しい。絶対音楽は内在批評によって普遍的に価値づけられるけれど、標題音楽は社会背景や社会思想によって位置づけや評価が左右されがちになる。

ただし、内在批評を重視した絶対音楽派の側にも、じつは政治的な動機がありました。
絶対音楽の優位性を主張したエドゥアルト・ハンスリックの実質的な目的は「ワーグナー批判」でしたが、ある意味では、イタリアオペラに対するドイツ器楽音楽の優位性を正当化するロジックでもある。
そしてハンスリックの主張には、ワーグナーの標題音楽が「反ユダヤ思想」の表現になることへの危機感が含まれてた可能性もあります。なぜならハンスリック自身(の母方)がユダヤ系だったから。同じくユダヤ系でメンデルスゾーンの弟子だったヨーゼフ・ヨアヒムも、ブラームスと共同でワーグナーやリストらの音楽を批判する宣言を出してますが、彼はユダヤ系有力者であるウィトゲンシュタイン家の親類であり、このウィトゲンシュタイン家を中心とするユダヤコネクションこそが当時のウィーンの代表的な文化サロンをなしてました。

ハンスリックは、ブルックナーをも「ワーグナー一派」と見なして攻撃したけれど、はたから見ればブルックナー作品はブラームス以上に絶対音楽的だったわけで、そういうところには論理的な矛盾も見られます。そしてハンスリックが擁護したブラームス本人も、絶対音楽派を自認してたとは言い切れない面があり、なかばハンスリックの擁護を迷惑にすら感じてたっぽい。
指揮者のハンス・フォン・ビューローも、ワーグナー派からブラームス派へ転向してハンスリックの主張に倣いましたが、彼の場合はかなり私情が混じってた感もありますね(妻のコジマをワーグナーに寝取られたから?)。ビューローは、ドイツ音楽史からワーグナーを排除するために「ドイツ三大B(バッハ/ベートーベン/ブラームス)」という詭弁を弄して絶対音楽の系譜の優位性を強調しましたが、客観的に見れば「ヘンデル/ベートーベン/ワーグナー」という標題音楽の系譜のほうがはるかに強力でした。実際、ヘンデルのメサイアがなければ、バッハのマタイ受難曲が再評価されることも、ベートーベンが第9を作ることもなかったはずだから。
そして結果的にドイツ音楽の優位性は、ブラームスの絶対音楽によってではなく、ワーグナーの楽劇によってこそ証明されたわけだから、ハンスリックの理念はいまいち現実を反映してない。

とはいえ、ワーグナーの楽劇の世界的な成功が「標題音楽の勝利」を意味するとは言い切れません。ワーグナーの楽劇がのちにナチスに利用されたことを考えれば、その系譜はむしろ最悪の結果に帰着したともいえます。したがって、そこから外在批評の危険性を指摘するのも十分に可能ではある。

◇ 


一方、映画における内在批評といえば、蓮實重彦の「表層批評」が有名です。

映画が主題や物語に従属することを拒否して、もっぱらその形式的な美学において評価する手法のこと。だから蓮實は、黒澤明やベルトルッチに対して批判的だし、ゴダールのジガ・ヴェルトフ期にも批判的です(この時期のゴダールは「映画による社会革命」を目指したから)。とくに黒澤やベルトルッチの場合は、物語の内容がファシズム批判でありながら、映画形式がかなりファシズム的だという矛盾もあって、それは黒澤明が「天皇」と呼ばれたり、ベルトルッチに性加害疑惑があったこととも無関係じゃない。

そして映画においてもナチスの問題は重大で、とくにレニ・リーフェンシュタールが作ったナチスのプロパガンダ映画をどう評価するかについての深刻な議論があります。彼女の映画は形式美に優れてるので、内在批評においては高く評価されるけれど、外在批評においては激しく糾弾される。ワーグナーのケースとは逆のことが起こってるともいえます。
蓮實の場合は、女性を客体化したヒッチコックや、男性主義的かつ国家主義的と目されるジョン・フォードを、その形式性において高く評価するくらいだから、おそらくレニに対しても一定の評価(もしくは高い評価)を与えるはずです。

◇ 

こうした内在批評は、専門性が高い反面、やはり一般の観客の言論が貧困になりがち。クラシック音楽の内在批評(楽曲分析)などは専門性が高すぎて、ほとんど音楽大学の教授にしか触れない領域になり、言論が象牙の塔に引きこもって評価軸が硬直的になる。そして一般の聴衆はほとんどものが言えなくなる。

蓮實の影響を受けた一般のシネフィルは、物語の読解も主題の分析も放棄した結果、ただひたすら「ショットが素晴らしいですね!」を連発するだけの馬鹿ばっかりになりました。その昔、アモス・ギタイが来日してエルサレムについての作品を上映したとき、その質疑応答で誰ひとり政治的な主題には触れず、美大生みたいなシネフィルたちが、ひたすら「ショットが素晴らしいですね!」を連発するのを見て、わたしは唖然としたことがあります。それを内在批評といったら聞こえがいいけれど、たんなる形式美への逃避でしかない。
これは、さながらアニヲタが「作画が素晴らしいですね!」を連発して、ジブリ映画の主題や物語をスルーするのと同じです。そして、それ以上の具体的なことを言える人はほとんどいない。なぜなら一般の観客は、カメラの置き方も、照明の当て方も、構図の作り方も、コマの割り方も分からないから。そのあげく「良いものは良い」みたいに呟くだけが精一杯になる。しょせん素人の内在批評なんてそんなものです。

アニヲタの場合は、物語の読解や主題の分析をスルーして、ひたすら美少女やロボットのような萌え要素だけを愛でる「動物的な消費(データベース消費)」に成り下がる面もある。それを指摘したのは東浩紀ですが、彼自身はヲタク文化に対して世代的な共感があるらしく、肯定もしてないけれど、とくに否定もしてません。
ロックやポップスの内在批評も、やはりギターのリフ萌えだの、ベースライン萌えだの、コード萌えだのに終始しがちになる。その結果「ギターリフが凄い!」「ベースラインがエグい!」「コード進行がエモい!」「歌詞が深い!」みたいなことをオウムのように連発するだけで、それ以上のことが何も言えない素人が増えていく。

さらにAIが音楽を作る時代になると、AI以上の形式美を追求できるのは、ごく一部の天才に限られるようになるし、しまいに形式美の追求はAIに任せておけばよいってことになるはずです。

◇ 


20世紀のクラシック音楽と同様に、21世紀のポピュラー音楽は再解釈の時代に入ってて、そこでは内在批評よりもむしろ外在批評の社会的な意味づけによって作品の評価が変動していきます。たしかに内在批評は普遍的だけれど、逆にいうと再解釈や再評価には関与しにくい。

たとえばバッハのマタイ受難曲の形式美も、内在批評においては当初から支持されてただろうけど、それが社会的に再評価されたのはメンデルスゾーンの復活上演によってだし、ヘンデルのメサイアの世界的成功という文脈がなければありえませんでした。
ヴィヴァルディの音楽が20世紀に再発見されたのは内在批評のお陰かもしれないけど、それを時代の嗜好に結びつける外在批評がなければ、やはり一般的なブームにまでは発展しなかったはず。
近年の日本のシティポップの世界的なブームなども、たんに「良いものは良い」みたいな内在批評によって実現したわけじゃない。それはむしろイタロディスコのブームと同じく「ちょっとダサいけど逆にそこがいいよね」という意味づけの変化による再解釈の結果だったのだし、それを導いたのは外在批評だったというべきです。
一方、前期ビートルズから後期ビートルズへの変化はボブ・ディランとの出会いが転換点になってるだろうけど、そういう事象も内在批評だけじゃ理解できませんよね。

内在批評は音楽制作者にとっての参考にはなっても、新しい時代の評価軸を生み出したり、時代の潮流の変化を説明したりする力は弱い。たとえば形式美の画期的な変更を見抜くことができれば、内在批評が時代を動かすことも不可能じゃないけれど、そもそも内在批評で形式美を語るだけでは、その音楽の魅力を一般の聴衆にまで届けるのは難しい。多くの場合、作品の評価を決めるのは外在批評であって、内在批評は後追いで「なぜ良いのか」を説明するにとどまってしまう。
現在の音楽ジャーナリズムは、たんなるプロモーション媒体に成り下がってるけれど、かといって社会的な文脈を作り出せるほどの言語的な力もないので、現状ではアニメのタイアップ曲ばかりが優勢になってます。そして内在批評は、そんなアニメのタイアップ曲であれ、筒美京平のような職業作曲家の歌謡曲であれ、劇伴サントラみたいな受注生産の音楽であれ、その形式性を平等に評価するしかない。
むしろ外在批評の側面を強化しなければ、新しい評価軸を生み出すことは出来ないと思います。


◇ 

なお、念のための補足ですが…

蓮實重彦の「表層批評」と同時期に登場した柄谷行人の「漱石論」は、テキストの表層から作者本人も自覚してない隠れた主題を読み取るという精神分析的な手法で、一見すると内在批評(表層批評)に似てるかもしれませんが、実際には「高度な外在批評」というべきであり、じつは蓮實の表層批評にもそういう側面があります。たとえば「ジョン・フォードは男性主義者ではない」というトリッキーな主張は、テキストの表層を精神分析的に読み解く手法にもとづいてる。
クラシック音楽のアナリーゼやポップスの楽曲分析にも、それを応用できなくはありません。





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最終更新日  2026.04.14 06:52:17


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