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ツール・ド・フランス

2012/06/29
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ローラン・フィニョン(Laurent Fignon、1960年8月12日 - 2010年8月31日[1])はフランス・パリ生まれの

元自転車競技(ロードレース)選手。1983年・1984年のツール・ド・フランスにおいて総合2連覇を達成した。フレー

ムの細い丸眼鏡を着用し、知的な風貌も手伝って教授というニックネームがつけられていた。

  • 458px-Laurent_FIGNON.jpg


1982年より本格的にプロ選手としてのキャリアを積み、ベルナール・イノーがエースであったルノー・ジタンに所属

した。

1983年、イノーはブエルタ・ア・エスパーニャを制しながらも、古傷の膝の故障が癒えずツール・ド・フランスの欠場

を余儀なくされた。その代役として、当時ルノーの監督だったシリル・ギマールがイノーと相談の上、キャリア2年目

ながらも、その年のブエルタで区間優勝(第4ステージ)を経験しているフィニョンを抜擢、ツールに出場させた(ちな

みにこのときの決断に対し、フィニョンは生涯、ギマールとイノーに恩義を感じていた

すると、フィニョンは中盤で総合2位に浮上し、さらに総合1位のパスカル・シモンを第15ステージの個人タイムトライ

アルで追い詰め、そしてシモンが第17ステージでリタイアするとマイヨ・ジョーヌを奪った。その後もフィニョンはマイヨ

を守りきり、初出場で総合優勝の快挙を成し遂げた。

翌1984年、イノーがラ・ヴィ・クレールチームを立ち上げることとなり、ルノーを離れたことから、名実ともにフィニョンが

ルノーのエースとなった。フィニョンは同年のジロ・デ・イタリアでは最終ステージの個人タイムトライアルにおいて、

フランチェスコ・モゼールに逆転され総合2位に終わった(後述するが、フィニョンは1989年のツールでも同様の形で

逆転負けを喫することになる)が、イノーとの頂上対決となったツールではアルプス超えステージでイノーを圧倒し、

最終的にイノーに10分以上の差をつけてツール2連覇を果たした。またこの年、フランス国内選手権も優勝したこと

から、これからはフィニョンの黄金時代が到来するものと誰もが思った

つづき・・・






最終更新日  2012/06/29 08:04:52 AM
2012/06/22
ヨープ・ズートメルク(Gerardus Joseph ("Joop") Zoetemelk。1946年12月3日- )はオランダ生まれの

元自転車競技ロードレース選手。

  • 625px-Joop_zoetemelk.JPG


1968年に行われたメキシコオリンピックのロードチームタイムトライアルでオランダに金メダルをもたらし、翌年プロ

入り。1970年のツール・ド・フランスでは初出場ながらもエディ・メルクスに続く総合2位に入る。

しかし、メルクス、さらにベルナール・イノーの壁が厚く、ツール・ド・フランスでは総合2位の回数が6回を数えたこと

から、「万年2位」と言われたこともあった。さらに1974年にはレース中の大怪我に見舞われたことが原因で選手生

命を脅かされたり、また、1977年、1979年のツールでは、ドーピング検査で陽性反応が出たこともあった(当時は今

とは違って、区間記録は取り消されたものの、総合記録は完走時間記録に10分間のペナルティーが課せられるだ

けだった)。

だが1980年のツールでは、イノーの途中棄権に助けられたとはいえ10回目の出場にして悲願の総合初優勝を果たし、

その後も38歳で世界自転車選手権(1985年)、40歳でアムステルゴールドレース(1987年)を制するなど、1987年に

引退するまで、長期間に亘って第一線で活躍を続けた。また、1979年にはブエルタ・ア・エスパーニャでも総合優勝

を果たしている他、数多くのステージ、クラシックレースを制覇した。ツール・ド・フランス出場16回ならびに完走

16回は大会記録である。


引退後、1996年から2006年のブエルタまで、ラボバンクチームの監督を務めた。






最終更新日  2012/06/22 08:03:40 AM
2012/06/15
ベルナール・イノー(Bernard Hinault、1954年11月14日 - )はフランスのブルターニュ地方コート=

ダルモール県イフィニアック(サンブリュー近郊)出身の自転車プロロードレース選手。

  • Bernard_hinault.jpg


兄に借りた自転車で地元のレースに出場したのが初めてのレース参加であった。1974年20歳の時にプロ

入り。

「平地に見えるところでも決して速度を緩めないこと」をポリシーとし、その後ツール・ド・フランス5勝(19

78年、1979年、1981年、1982年、

1985年)
をはじめ、ジロ・デ・イタリア3勝(1980年、1982年、1985年)ブエルタ・ア・エスパーニャ

2勝
(1978年、1983年)
、世界選手権優勝(1980年)、パリ~ルーベ、ジロ・ディ・ロンバルディア、アムステル

ゴールドレース等主要ロードレースで数多くのタイトルをものにした。

イノーといえば、平地、山岳、タイムトライアルと、いずれも超一流の実力を兼ね備え、エディ・メルクスと並び

称される、真のオールラウンダー選手という評価もされている。加えて無類の戦略家でもあり、集団で膠着

状態が続いた場合には、自らアタックをかけてライバルと思われる選手たちをリタイア等で潰したケースも少

なくない。

一方、現役時代は、膝の故障を常に抱えたままレースに出場していた。総合3連覇がかかった1980年の

ツール・ド・フランスでは、マイヨ・ジョーヌ着用のままリタイア。1983年のツール・ド・フランスでは、出場すら

ままならず、結果、代替出場となったローラン・フィニョンの台頭を許し、翌1984年、フィニョンにルノーのリー

ダーの座を奪われ、自身でチームを結成せざるを得なくなった。しかし、1985年のジロ・デ・イタリア、ツール・

ド・フランスの両レースで総合優勝を果たし、当時発行されていた自転車競技マガジンでは、『不死鳥イノー』

と銘打った。しかしその頃から、既に膝の状態は限界に達していたようである。したがって、『翌1986年の

ツール・ド・フランスでは、グレッグ・レモンに優勝させる。』と明言したが、その裏には、もはやツールで優勝

できる力は残っていなかった、という含みがあったものと考えられる。そして、1986年のツールにおいて、

明言通りレモンに総合優勝をもたらし、自身は総合2位となったのを事実上最後に、32歳の若さで現役から

退いた。

1986年に現役を引退した後は、妻と二人の子供と共に農場で暮すかたわら、ASO(アモリスポーツオルガニ

ザシヨン)の渉外担当としてツール・ド・フランスの運営に関わったり、自転車フレームメーカーであるルック社

の技術的なアドバイザーも務めている。この他、ツール・ド・フランスで表彰式のプレゼンターを勤めることも多い

が、表彰台に乱入する不心得者をつまみ出すシーンが度々見受けられる

また、広島・長崎への原爆投下60周年に当たる2005年から毎夏ブルゴーニュにて開催されている平和記念

自転車競走にゲストとして参加している。2008年2月には20年振りに来日して東京、長崎、広島、京都を訪問

した。東京では明治神宮外苑でのクリテリウムに被爆マリア像が描かれたジャージを纏って参加。その後被

爆地である長崎と広島を巡り、長崎では被爆マリア像との対面を果たしている[2]。京都では桂川サイクリング

ロードでのサイクリングイベントが行われた。






最終更新日  2012/06/15 08:07:35 AM
2012/06/14
ルシアン・バンインプ (Lucien Van Impe。1946年10月20日- )は、ベルギー・フレミング出身の元自転車

競技選手。ツール・ド・フランスでは6度に亘り山岳賞を獲得するという実績を誇り、まさしく、キングオブマウンテン

の名に相応しい山岳スペシャリストであった。近時、原語表記に近い、ルシアン・ファンインプと明記する自転車競

技関連Web、雑誌もある。

  • Lucien_van_Impe.jpg


長らくエディ・メルクスの壁が厚く、ツールでは山岳賞こそ獲得するものの、総合成績ではベストテンの常連であり

ながらもなかなか優勝まではたどり着けなかった。しかしメルクスが出場しなかったとはいえ、1976年のツール・ド

・フランスでは、ラルプ・デュエズのステージで首位に立ち、ピレネー超えステージで他を圧倒したことも手伝って、

7度目の出場にして初めて総合優勝を果たした。また翌1977年のツール・ド・フランスではラルプ・デュエズにて伴

走者と接触したことが影響し、惜しくも総合3位に終った。

ツールにおける6度の山岳賞獲得は、スペインのフェデリコ・バーモンテスと並ぶタイ記録であったが、2004年に

フランスのリシャール・ビランクが7度目の山岳賞を獲得し、2人の記録を塗り替えた。

ちなみにバンインプはジロ・デ・イタリアでも2度の山岳賞を獲得しており、またツールでは15回の完走を果たして

いる。ツールにおける15回の完走記録は、ヨープ・ズートメルクの16回に次ぐ記録で、後にヴィアチェスラフ・エキ

モフが達成した。また、バンインプが1976年に優勝して以降、ベルギー国籍の選手がツール・ド・フランス

において総合優勝を果たしたケースはない。


なお、引退後の2001年、自らが発起人となって、ツール・ド・フランスのレース中に非業の死を遂げたトム・

シンプソンの記念館をオープンさせた。






最終更新日  2012/06/14 08:09:52 AM
2012/06/09
ベルナール・テブネ(Bernard Th?venet。1948年1月10日- )はフランス・ソーヌ=エ=ロワール県

のサンジュリアン・ド・シヴリ出身の元自転車競技選手。1975年、1977年のツール・ド・フランス総合優勝

者である。もみあげが長い風貌が特徴の選手でもあった。

  • 318px-Th?venet_Bernard.JPG


1968年、ルート・ド・フランス、フランス国内ジュニア選手権優勝。1970年にプロに転向し、プジョーのメンバ

ーとなる。その年、後に2回の総合優勝を果たすことになるツール・ド・フランスにも出場し、区間1勝を挙げる。

1972年、ツール・ド・ロマンディ優勝。しかしその年のツールで落車した際、打ち所が悪く一時的に健忘症の

状態に陥る。チームとしてはテブネにリタイアを勧めたが断固拒否。それどころか後に行われた、過酷なコー

スとして名高いモン・ヴァントゥの区間を見事優勝する。1973年のツールでは、ルイス・オカーニャに15分

以上の差こそつけられたものの総合2位。しかし1974年のツールは病気のため出場できなかった。


1975年はドーフィネ・リベレを優勝したが、何といっても最大のハイライトはこの年のツールだった。史上最多

の6度目の総合優勝を狙うエディ・メルクスが第15ステージのイゾアール峠(標高:2361m)付近で、慢性腰背

痛と観客からパンチを浴びせられたことに起因する体調面の不良がもとで、何度かアタックをかけるも徐々に

失速。一方、このステージを制したテブネがメルクスからマイヨ・ジョーヌを奪い取った。テブネは続く第16ステ

ージでもメルクスに3分近い差をつけて連続区間優勝を果たし、その後もメルクスの追撃を許さず、悲願の

ツール・ド・フランス総合優勝を果たした。そしてこの大会はまた、メルクスの黄金時代に事実上終止符が

打たれた大会ともなった。

1976年はドーフィネ・リベレ連覇を果たすもツールは途中棄権。しかし捲土重来を期した1977年のツールでは、

ハニー・クイパー、ルシアン・バンインプらと激しく競り合い、最後はクイパーとの一騎打ちとなったが、48秒差

という僅差ながらも最終ステージ前半の個人タイムトライアルでクイパーとの決着をつけ、2度目のツール総合

優勝を果たした。
一方、77年のパリ~ニースにおいてドーピングの陽性反応が出た。また、この年の冬にテブネ

は入院を余儀なくされたが、長期間に亘ってステロイド剤を服用していたと見られる症状が確認された。

その後のテブネの成績は今ひとつ。1980年に移籍したテカ時代に、グルノーブル6日間レースでダニー・

クラークと組んで優勝した程度。ロードレースではさしたる結果を残すことはできず、1981年に引退した。

その後はRMOチームの監督も歴任したが、現在はテレビ・雑誌等の評論活動を中心に、グルノーブル

6日間レースの運営委員も務めている。






最終更新日  2012/06/09 08:01:40 AM
2012/06/05
ルイス・オカーニャ(Luis Oca?a。1945年6月9日-1994年5月19日)は、スペイン・クエンカ県

のプリエゴ出身の元自転車競技選手。なお、オカーニャ一家は1957年に、フランスのモン・デ・マル

サンに移住した。

1968年からプロ選手として本格的に活動し、1970年にはブエルタ・ア・エスパーニャ、ドーフィネ・

リベレで総合優勝を飾る。そして翌、1971年のシーズンはオカーニャにとって、良くも悪くも今後

の競走生活に大きな影響を与える年となる。



エディ・メルクスはこの年、ツール・ド・フランス3連覇を期し、ここ一本に照準を合わせてきた。

大方の下馬評では、メルクスが他を圧倒して3連覇を果たすだろうと見ていた。ところが序盤

からメルクスを追い落とす勢いを見せていたオカーニャは、アルプス超えの中盤ステージにお

いて圧倒し続け、アルプス終了時点ではメルクスに7分以上の差をつけていた。ひょっとすると

続くピレネー超えステージにおいてもオカーニャの勢いはメルクスを勝るのではないかという声

まで出始めた。ところが、雨が降りしきり、視界不良の状況となった第14ステージのメンテ峠に

おいて、スリップしたメルクスにオカーニャは乗り上げてしまい、そのまま崖下へと転落

瀕死の重傷に追い込まれたオカーニャはマイヨジョーヌのまま無念のリタイアとなってしまった。



翌1972年のツールでもまた、序盤からオカーニャはメルクスと激しく競り合った。しかしメルクス

は中盤のアルプスステージにおいて徹底してオカーニャ潰しに出た。そしてこれが功を奏して

オカーニャをアルプス超え途中でリタイアに追い込み、ついにその後、メルクスは史上2人目の

ツール総合4連覇を果たした。

翌1973年。この年のツールには出場しないことになったメルクスは初めてブエルタに出場。そこ

でまたまたオカーニャと対決することになったが、メルクスは一度もオカーニャに対して総合トップ

の座に就かせず快勝した。


1973年のツール・ド・フランスにおいて、オカーニャはアルプス超えの第7ステージにおいて

マイヨ・ジョーヌを奪うと、その後は他を圧倒。最後は2位のベルナール・テブネに15分51秒

の差をつけて悲願の総合優勝を果たした

とりわけ第8ステージにおいて、他の優勝候補がオカーニャについていくことさえままならな

かったという、オカーニャの強さだけが光った。この強さに対し、ひょっとするとメルクスがい

てもオカーニャに完敗していたのではないかという声まで上がった。


オカーニャはその後さしたる良績を収めることはできなかった。幾度となく展開されたメルクス

との激しい攻防や、ツールでの圧勝劇の反動が出て燃え尽きてしまったのかもしれない。

そして、オカーニャ自身の人生もまた、悲劇の最期を迎えることになる。

1994年5月19日、オカーニャは猟銃自殺を遂げた。借金問題に加え、前々から患っていた

C型肝炎に悩まされていた末の決断だったと言われている。








最終更新日  2012/06/05 08:04:48 AM
2012/06/04
史上最強のロードレース選手、エディ・メルクス


ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアをそれぞれ5回ずつ、ブエルタ・ア・エスパーニャを

1回制覇しており、ツール・ド・フランス通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・

ジョーヌ着用日数96日はいずれもツール・ド・フランスにおける最高記録である。

また世界選手権でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。さらにミラノ~サンレモを

7回、リエージュ~バストーニュ~リエージュを5回制するなどクラシックでも数多くの記録

を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン

50勝以上を3回達成している)ほか、パトリック・セルキュとタッグを組んでトラック競技でも

勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。

ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、72年、

74年の3回達成。74年はさらに世界選手権も制して「トリプルクラウン」を史上初めて

達成した選手
でもある。

全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利

を目指した貪欲さから、他の選手たちに「人食い(The Cannibal)」の異名で恐れられ

(但し、本人曰く、他の選手から直接この名で呼ばれたことはないとのこと。

その数々の伝説的偉業により、ロードレース・ファンからはファウスト・コッピと並んで

「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―チャンピオンの中のチャンピオン)

と呼ばれている。

ちなみに長い自転車レースの歴史の中で、カンピオニッシモの称号を持つのはこの二人だけ

であり、2年連続ダブルツールを達成したミゲル・インドゥラインや、ツール・ド・フランスを7連続総

合優勝したランス・アームストロングでさえ与えられていない。

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最終更新日  2012/06/04 08:05:41 AM
2012/05/31
ヤン・ヤンセン(Jan Janssen、本名:Johannes Adrianus Janssen(ヨハネス・

アドリアヌス・ヤンセン)。1940年5月19日 - )
は、オランダ・ノートドルプ出身の

元自転車競技選手。

  • 264px-Jan_Janssen_1968_Adsteeg_cropped.jpg


ヤンセンは若い頃より、重役として親とともに同族が経営する会社で働いていたが、16歳の頃、

自転車チームに加入。1962年にプロ選手に転向した。その年、チューリッヒ選手権を制した。

本格化したのは1964年。パリ~ニースで総合優勝を果たし、ツール・ド・フランスではポイント

賞を獲得。そして、9月にフランスのサランシェで開催された世界自転車選手権プロ・ロードレ

ースを制し、一躍トップスターへと上り詰めた。

1965年はロンド・ファン・ネーデルランド総合優勝、ツール・ド・フランスポイント賞獲得等の実績

を挙げる。1966年はボルドー~パリを制覇。そして1967年、1968年の2年間は最高潮のシーズ

ンとなった。

1967年、ブエルタ・ア・エスパーニャの総合優勝並びにポイント賞を獲得。さらにツールでは当時

としては最多受賞となる3度目のポイント賞を獲得した他、パリ~ルーベも制覇。世界選手権でも

2位に食い込んだ。また、スーパープレスティージュを受賞した。

1968年、ブエルタで2度目のポイント賞を獲得。そしてツール・ド・フランスでは、ベルギーのヘル

マン・バンスプリンゲルと終盤までマイヨ・ジョーヌ争いを演じ、最終・第22ステージの個人タイム

トライアルにおいてバンスプリンゲルを38秒差逆転し、劇的な総合優勝を果たした。ちなみに

オランダ国籍選手として、初めてツール・ド・フランスで総合優勝を果たした瞬間でもあった。

1973年に引退。

ツール・ド・フランス開幕まで、あと一か月。ウィンク

今年は、日本人選手が4人出場の可能性も?ぽっ







最終更新日  2012/05/31 08:05:41 AM
2012/05/30
ロジェ・パンジョン(Roger Pingeon、1940年8月28日 - )は、フランス・アン県オート

ヴィル出身の元自転車競技選手。1965年から1974年までプロ生活を送った。

1967年のツール・ド・フランスでは、第5ステージでマイヨ・ジョーヌを得るや、その後第7

ステージ以外の全てのステージで総合首位に立って総合優勝を果たした。

また、1969年のブエルタ・ア・エスパーニャでも総合優勝を果たした。同年のツールでは、

エディ・メルクスに次ぐ、総合2位に入る。

  • 459px-Roger_Pingeon.jpg


ツール・ド・フランス開幕まであと一カ月!

その前に、去年の激闘をもう一度ちょき



ツールの歴史もオーケー







最終更新日  2012/05/30 08:14:17 AM
2012/05/26
ルシアン・エマール(Lucien Aimar、1941年4月28日- )は、フランス・イエール出身の

元自転車競技選手。



1963年にプロ入り。1969年までジャック・アンクティルとチームを共にし、主にアンクティルの

アシストとして活躍した。プロ入り初年度の63年には、フランス国内選手権・個人ロードレー

スを制覇する。

1966年のツール・ド・フランスにおいて、本来エースであるべきはずのアンクティルをさしおいて、

エマールがフォードチームのエースナンバーである1番のゼッケンを着用。アンクティルが第19ス

テージにおいて途中棄権する一方で、エマールは第17ステージにおいてヤン・ヤンセンからマイ

ヨ・ジョーヌを奪取し、最後は2位ヤンセンに対して1分7秒という差ながらも押し切って総合優勝を

飾った。

この他、ダンケルク4日間レースを1967年に制覇。また、フランス国内選手権においては、上記

の63年の他、1968年にも制覇した。






最終更新日  2012/05/26 08:00:04 AM

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