|
テーマ:歴史なんでも(787)
カテゴリ:風景・旅行など
幕末、明治維新ゆかりの地3
会津若松、鶴ヶ城、飯森山、サザエ堂を紹介。 です。 今回は会津若松を紹介します。 カワイイので載せました、電車の中から見た犬とおじさん。 Go To Travelキャンペーンはまずは県内消費を中心にした方が良かったのかも、焦った事でかえって窮地に陥れた。星野リゾートの代表取締役社長 星野佳路氏も時間をかけて県内や近県を対象にまずはお客様を呼んで回復させようと仰っておりました、それでも影響で一部がまだ休業を余儀なくされているところも。自分もコロナじゃなきゃどっか旅行に行きたい。本当は祐徳稲荷神社へ行こう計画してましたが、先の洪水で…ただでさえダメージが大きいのに近県でも県外から来てコロナじゃ目も当てられない。 鶴ヶ城稲荷神社 ご祭神:宇迦魂命(ウカノミタマノミコト) 編み笠とほっかむりをした姿狐の狛狐が、参道の階段の両脇に3対、合計6体がお出迎え。ほっかむりした親子狐が可愛いい。 ”鶴ヶ城内にある『鶴ヶ城稲荷神社』は、約600年前に城がつくられた頃から、守護神として祀られていたと伝えられており、食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であり、日本で最も親しまれている神様の1つ「稲荷大神」を祀っている神社として有名。伝説によると、築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決め、今現在名城と評価の高い名城を築くことができたと伝えられています。” 甲冑を着た案内人が、今やどこのお城にもいます。 天守閣からの景色(デジャヴ 3回目)、旅行したら毎回お城は行きたい。鶴ヶ城(つるがじょう) 旅行に行くとよく城に登りますね、城も一つのパワースポット。御薬園後に各種薬草を栽培する薬草園が設けられ、「御薬園」と呼ばれるようになりました。戊辰戦争時は、ここが新政府軍の療養所として使用されたため、戦火に巻き込まれずに往時の姿をとどめています。 ここで薬膳茶を買ったような、それ、いつの間にか何処かへ行ってしまいましたが。 トイレの神様 トイレの神様一時期、トイレの神様も流行りましたがこんなところに…ちなみに、トイレは綺麗に掃除すると良いエネルギーのパワースポットになりますよ、トイレに神様がいるとはそういう事です。 ソースカツ丼 会津武家屋敷 会津藩家老、西郷頼母邸を復元し、敷地内には代官の陣屋や茶室を再現しています。西郷頼母邸、当時は風呂場がかなり狭かったのですね、木の建物でであるため、火の取り扱い厳重に注意したとか、だから炊事場と同じ場所にある。綾瀬はるかさんの写真が、八重の桜の舞台の一つでした。 会津天満宮”志田四郎は西郷家の養子となって講道館柔道で活躍し、大技山嵐をあみだし、小説「姿三四郎」のモデルとなりました。” 龍馬を斬った男(早乙女貢)で有名な会津藩士・佐々木只三郎の墓が会津天満宮横にあったのですが、気が付かなかった。金網フェンスが張られやたらと物々しかったような… 近藤勇の墓 天寧寺にある近藤勇の墓、石碑には辞世の句が。 土方歳三が建てたとされています。お墓には遺髪が埋葬されたとされています。実は処刑後、その首は京都で晒され、その後行方不明に、もしかしたらここへ埋葬されたのかもしれません、これは斎藤一も一枚かんでいるかも。天寧寺では近藤勇の命日である4月25日に墓前祭りが開催されるとか。 しかし、ここまで来るには薄暗く外れにある為に結構怖いです。そうせざるおえなかったのかも。 会津若松駅 会津の月 宿泊場所の近くから見たチャペル、まるでドラキュラ城のよう… 何だか懐かしい、 飯森山へ ”「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたという。 江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、墓前に 山のふもとには土産屋が並ぶ。この土産屋一帯は、昔から存在し、無料の看板で駐車場へ誘うものの一定の土産物屋で買い物を迫る「買うように迫る商法」とよく言われ、強烈な誘いで有名。山へ登るのには2つのコースがあり、徒歩で登るコースと、エスカレータで登るコースがある。(後者有料)ウィキペディアより” 白虎隊十九士の墓 白虎隊(びゃっこたい)16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊、中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「白虎」。やっぱり白虎隊の悲劇方が印象が強い、その彼らの墓、13歳 ~17歳、丁度、中高生の年齢だった。自害した場所、一般に白虎隊は若松城周辺の火災を目にし落城したと誤認して悲観したとされていますが、実際は敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。 実は良い家おぼっちゃんがほとんどだった、教育がそう決意させたのだった。 飯森山から見る景色、 酒井峰治さん、仲間とはぐれ生き残り、後に鶴ヶ城籠城戦に加わっている。 栄螺堂(さざえどう)正式名称 円通三匝堂(えんつうさんそうどう) 二重らせん構造の三匝堂、入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を降りて出口から出ることができる。考えた人の脳味噌が見て見たい建物だ。 厳島神社 会津ラーメン 最後に、 阿弥陀寺 藤田五郎の墓 七日町通り新撰組や白虎隊関連の遺功がおおいですね、斎藤一が時尾さんに惚れるのも分かる。 毎月7日に市が立ったことから名付けられたとされています。 幕末、明治維新ゆかりの地3 会津若松、鶴ヶ城、飯森山、サザエ堂を紹介でした。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月15日 19時54分10秒
コメント(0) | コメントを書く
[風景・旅行など] カテゴリの最新記事
|