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カテゴリ:旅の記録
先月、広島県の竹原港から呉港まで、瀬戸内海を船で旅する機会に恵まれました。
旅といっても、仕事を兼ねての行動ですから、のんびり船旅とはいきません。 それでも、さすがに瀬戸内海です。 陸から見る海とは、また違った表情を見せて楽しませてくれました。 そこで、このときの船旅のスケッチを、これから数回にわけて紹介することにしましょう。 まずは、早朝、6時50分の竹原の内港桟橋の風景です。 ![]() 7時10分発の契島(ちぎりしま)に向かうフェリーが出航時刻を待っています。 契島は、竹原の南、およそ20分のところにあり、東邦亜鉛の主力工場である精錬所によって占められています。 このためこのフェリーは、もっぱら通勤客用です。 各地の島を結ぶフェリーの乗り場は、内港桟橋から500メートルほど南になります。ここからは大崎上島・大崎上島・愛媛県今治市の波方に向けて、多くのフェリーが発着しています。 この日も、3隻のフェリーが出航時刻を待っていました。 それを横に見ながら、一路、大久野島(おおくのじま)をめざします。 大久野島は、忠海(ただのうみ)の沖合3キロのところにあります。 したがって呉とは反対方向なのですが、今回、船をチャーターしてくださったFさんとご学友が乗船されるため、そのお迎えです。 朝日を浴びながら、潮の流れに乗って進むと、まもなく、正面に大久野島が見えてきました。 いま、午前7時13分です。 ![]() この島は、アジア太平洋戦争中は、地図から消されていました。 陸軍の造兵廠火工廠忠海兵器製作所(1929年竣工)があり、毒ガスを製造していたからです。 その種類は、皮膚や粘膜を破壊して死亡させるイペリット(きい1号)、呼吸器系統に障害を起こさせて窒息させるホスゲン(あお1号)、眼に灼熱的な刺激をあたえる催涙ガスのクロロアセトフェノン(みどり1号)など7種類に及んだといいます。 それぞれの毒ガスに、「きい」「あお」「みどり」といった色の呼び方がついていたのは、毒ガスとしての存在を隠すためでした。 そして、その工場の存在を隠すため、大久野島も地図から消されてしまったのです。 その生産量は、敗戦の1945年まで、およそ6616トン。 生産された毒ガスは、催涙ガスなどは、忠海兵器製造所でタンクや缶に入れて保管されたほか、放射筒・砲弾・投下弾に装填されました。 また、イペリット・ホスゲンなどは、北九州市(当時は企救郡曾根村)にあった陸軍の造兵廠曾根製造所に運ばれて、砲弾・爆弾に注入されまた。 こうして生産された毒ガス弾の総生産量は、およそ207万4000発。 それらは、中国各地の日本軍に送り届けられました。 そして、日中戦争がはじまる1937年から使用され、1939年からは、その使用も日常化していきます。 さらに、アジア太平洋戦争がはじまると、イギリス軍やアメリカ軍の一部に対しても使用されました。 こうして、1930年代から第二次世界大戦にかけて、日本軍は、戦場で継続的に毒ガスを使用しました。 これほど継続的に戦場で毒ガスを使用したのは、日本軍だけでした。 いまは、こうした過去の歴史を消し去るかのように、大久野島には、国民休暇村が建設され、多くの観光客で賑わっています。 しかし、この島で毒ガスが製造され、多くの中国人に対して使用されたこと。 そして製造に携わった人のなかにも犠牲者が出たこと。 さらに、敗戦後、その毒ガスを中国に遺棄したため、いまなお中国では被害者を出ていること。 こうした歴史の事実は、大久野島の毒ガス工場の存在とともに、ながく記憶しておかなければならないでしょう。 なお、大久野島の戦争遺跡に関しては、毒ガス島歴史研究所のHPを参照してください(赤文字をクリックすればサイトにとびます)。 また、日本軍の毒ガスに関しては、吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店(2004年)が参考になります。 関心のあるかたは、一読をお勧めします。 大久野島を出航すれば、いよいよ呉をめざして、瀬戸内海クルーズのはじまりです。 右手に、小早川警固衆(水軍)の基地のひとつだった忠海の賀儀城をみながら、これから一路、蒲刈をめざします。
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Last updated
Oct 14, 2005 06:27:56 PM
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