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感動写真日記 侍大将まこべえが行く

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Oct 26, 2005
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カテゴリ:旅の記録

音戸ノ瀬戸は、平清盛が、厳島への参詣ルートを短縮するために切り開いたと伝えられています。

難工事を進めるにあたり、人柱の代わりに、お経を石に一文字ずつ書いて海底に沈め、工事を完成させたという話も伝わっています。

この清盛の開削伝説は、ガイドブックにも紹介されていますから、ご存じのかたも多いでしょう。

しかし、この話、あくまでも伝説です。

当時の文書や記録からは、確認できません。

それどころか、開削伝説じたいも、鎌倉時代はおろか、足利義満の時代になっても、生まれてはいなかったようです。

たとえば、足利義満の厳島参詣に同行した今川了俊は、『鹿苑院殿厳島詣記』のなかで、瀬戸の潮の速さや狭い地形などには触れていますが、清盛の開削伝説については、ひと言も触れていません。

いまだ伝説が生まれていなかったか、生まれていたとしても広く流布してはいなかったことを示しています。

ところが、戦国時代にはいると、開削伝説が記録のなかにも登場してきます。

いまのところ、厳島神社の大宮棚森職を継承した棚森房顕(たなもりふさあき)の著書『房顕覚書』に、「清盛、福原より月詣であり、音渡(おんど)瀬戸、その砌に掘られる」とあるのが、最初のようです(『広島県史古代中世資料編3』1107頁)。

こうした点からすると、清盛の開削伝説は、室町時代から戦国時代のどこかで、創られた話だと考えられます。

かりに古くからあった伝承だとしても、地元で、ほそぼそと語り伝えられてきた程度のものだったのでしょう。

人柱のかわり経石を沈めたという話も、福原の大輪田泊(現在の神戸港)の築港伝説を、音戸ノ瀬戸にもあてはめて創った話のようです。


しかし、清盛の開削伝説を、まったくの創り話として否定するわけにもいきません。

清盛が厳島への参詣を繰り返し、貿易立国をめざして瀬戸内海航路の整備をすすめたことは、確かなことです。

また、平安時代の後期、音戸ノ瀬戸の周辺は、八条院の領地であった安摩荘(あまのしょう)に属し、実質的な支配者は、清盛の弟の平頼盛でした。

頼盛は、1179年、収入の一部を厳島神社にも寄進しています。

つまり、このあたりは、平氏ゆかりの土地だったのです。


こうした点から考えると、清盛が瀬戸内海航路の整備事業の一環として、音戸の瀬戸になんらかの手を加えたこと、たとえば、狭い水路を拡張したといった程度のことは、あったとしてもおかしくはありません。

開削伝説がたとえ創作だとしても、清盛が音戸の瀬戸を切り開いたと考える余地は、高いとみてよいでしょう。


その音戸の瀬戸を、いよいよ通過します。

時刻は、9時27分です。



清盛塚音戸ノ瀬戸の入口にあたる鰯浜(いわしはま)の岩礁上には、清盛塚とよばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っています。

船から撮影したため、よくわからないかもしれませんが、石の柵で囲まれた囲いの奥にひときわ高く立つ石塔が「清盛塚」です。

高さは、2メートル5センチあります。

清盛塚という名前から、清盛が立てたものだと言われていますが、形から見て、室町時代の宝篋印塔であり、清盛の時代のものではありません。

はじめから、この場所に立っていたのか、このあたりも、はっきりしません。




ただし、天正16年(1588年)の『輝元公御上洛日記』に、音戸の瀬戸に「清盛ノ石塔これあり」として登場します(『広島県史古代中世資料編1』641頁)。

このことから、少なくとも戦国時代には、清盛に関わる石塔だという認識は生まれていたようです

今後、細かな調査をする必要がありますが、清盛の開削伝説が広まるなか、瀬戸の近くにあった宝篋印塔が、いつのころからか「清盛の石塔」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

かりに、清盛ゆかりの宝篋印塔だとしても、それは、室町時代の人が清盛を供養するために立てたものでしょう。


ちなみに、宝篋印塔の立つ瀬戸の周辺(音戸町音戸)は、15世紀以降、竹原を本拠とした小早川氏の領地でした。

小早川氏は、領内に多くの宝篋印塔を立てています。

もしかしたら、この宝篋印塔も、もともとは小早川氏に関わる宝篋印塔だったのかもしれません。


         清盛塚


その清盛塚を、いま真横に見ながら瀬戸を通過します。

宝篋印塔は、木にかくれてよく見えませんが、相輪の先端がわずかに見えています。


これから音戸の瀬戸をあとにして、江田島に向かいます。



  音戸ノ瀬戸





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Last updated  Oct 26, 2005 09:35:46 PM
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