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カテゴリ:旅の記録
大講堂を出ると、右手に赤レンガの細長い建物が見えます。 ![]() 兵学校の生徒たちの生活・教育のために建設された第一生徒館(通称「赤レンガ」)です。 日清戦争がはじまる前の年、1893年(明治26)に造られました。 大講堂よりも、27年も古い建物ですが、たいへん美しく整備・保存されています。 もう少し近づいてみましょう。 たいへん長い建物です。 ![]() 明治前半期の西洋建築として、たいへん価値の高い建物だそうです。 レンガも、イギリスから、1個1個、包装されて軍艦で運ばれてきました。 レンガの積み方にも眼を向けてみましょう。 ![]() よく見ると、長めのレンガを一列に積み上げた上に、少し短めのレンガを一列に積み上げ、これを交互に繰り返す、イギリス積みの技法で造られていることがわかります。 レンガもそうですが、当時(明治期)の海軍そのものが、軍艦も、財源も、イギリスに依存して成り立っていました。 たとえば、日露戦争前の戦艦6隻はすべてイギリス製、装甲巡洋艦も6隻のうち4隻がイギリス製でした。 生徒館ができたころの日本海軍は、イギリス海軍の亜流のような存在だったのです。 ![]() 建物の正面は、兵学校の建物だけあって、なかなか貫禄があります。 もう少し近づくことができます。 ![]() 残念ながら、生徒館は、入館できませんが、中の様子は、真横からうかがうことができます。 ![]() ![]() たいへん長い廊下が一直線に続いており、背面(画面左側)は、大きなアーケード建築となっています。 たいへん美しい建物です。 江田島の兵学校は、戦前は、イギリスのダートマス、アメリカのアナポリスと肩を並べる世界三大海軍兵学校のひとつでした。 このため、「江田島」といえば、兵学校をさすほど、よく知られた存在でした。 受験資格は、16歳以上、19歳未満、学力は、旧制中学4年終了以上を基準とし、倍率は、1935年の試験(身体検査・学科試験)では、人員240名に対し、志願者は6847名もいて、28.5倍もの難関でした(採用人員は軍事費や政治状況によって変動します)。 まさにエリート養成所といってよいでしょう。 その江田島時代の最初の卒業生は、1889年(明治22)の第15期・80名。 その後、敗戦によって廃校になるまで、第74期(1945年3月)、約1万847人にもの卒業生を送りだしました(このほか敗戦時には75期から78期の在校生15129名がいました)。 卒業した学生は、少尉候補生となり、平時においては、遠洋航海での航海実習をへて、海軍少尉に任官します。 連合艦隊司令長官を務めた山本五十六も、ここの第32期生でした(1904年卒業・卒業人数は192名)。 現在、第一生徒館は、海上自衛隊の幹部候補生の学校庁舎として利用されています。 自衛隊の幹部は、3尉以上の8階級、つまり、尉官(1~3尉)・佐官(1~3佐)・将官(将・将補)をさし、年間およそ600名の幹部候補生がここで教育を受けて、3尉に任官していきます。 海軍時代なら、少尉ですから、いまもなお江田島は、士官養成の役割を担い続けているといってよいでしょう。 なお、大講堂と赤レンガの配置は、広場を前にして、このように向き合っています。 ![]() 〔お知らせ〕 2日の日記の内容を一部訂正・追加しています。また大講堂の内部の画像も追加しています。あわせてご覧ください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Nov 4, 2005 05:11:11 PM
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