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August 22, 2009
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カテゴリ:読んだ本
大田尭さんの『なぜ学校へ行くのか』(岩波書店、1984)を読み返しました。
1980年代に書かれたものですが、現在に通じる課題や指摘も多く、
とても励みになりました。以下、引用します。

人は、抵抗と試練の中で人となる。
欲望のおもむくままでは、人格の核心である自我は育たない。

§ いまの日本の子どもや若者のもつ問題点

・少年たち自身がどこに欲求不満があるかよくわからない
  →突発的、衝動的な形をとってあらわれ、抵抗の弱いものへと向かう傾向がある。
  →何かのきっかけでリーダーがあらわれ、グループとなってはじめて行動を起こす。

・目当てがなく、慢性的なイライラ、ムカムカ=実存的欲求不満におちいっている。

・劣等感と優越感のはざまに、自分という人間の値打ちを位置づけている。

・与えられるものの過剰、獲得するものの過少


§ 教化思想と能力主義

 ときの統治者が正しいとするイデオロギーに民衆の同化を求め、教え化する、教訓をたれることが教育という観念が日本人には根強い。長い歴史と重い伝統を経て、われわれの生活様式や思考まで支配している。何か上から、外から示される絶対的なお手本がないと頼りない。「依存願望」とでも言うべき内面的な傾向性ができていて、何事かを判断し、実行するにあたって、何か権威あるものに頼っていないと安定感がない。自分の自立を放棄して、外から与えられる絶対的な物差しへの同化に安定感を求める、このようなものの考え方が非常に強く存在している。人を愛するよりも人から愛されることを求める傾向も、こうした思想傾向と深いかかわりがある。そういう精神状況の中で、教育とは教化であり、権威ある教訓を身につけることなのだという考え方が、既成概念としてはびこっている。

 教化主義は人格丸抱えの、古いウェットな発想法だが、能力主義は近代的、ドライ。人格から能力だけを引き離し、効率的に開発し、社会の生産性の向上に役立たせる、経済合理主義の教育への応用。効率主義、能力主義は、競争原理を基本に置いている。人間の値打ちは、一人ひとりが違った持ち味をもっており、比べることがむずかしいが、あえてある能力分野にかぎって、そこを比べて優劣を競わせる。人格や個性とは切り離された、能力のある面を訓練して当面の社会の需要にあてる。教育というより、ある能力の訓練。

 「できる人間」を育てることに一般国民大衆も同調しているように見えるが、大もとは治者の教育観。一般の人々のそれへの戦術的順応があり、教師や一般父母にも、「できる人間」を育てることに対する同調が、かなり広がっている。


§ 教育とは何か

 人間らしさは、後天的に獲得する。
 生まれたときから与えられているしょうがいや貧しい環境も、自身の分別力、選ぶ力の発達により、個性に転化し、自己の成長の財産となる。教育は、この力に賭けている。

 人を人らしく育てる教育の目的は、選ぶ力をつけること。一人ひとりの子どもの内面に問いを育て、課題を育てること。人生を選び抜く力の栄養になるために、知識や技術は与えられる。


§ 学校の存在理由

 学校とは、真理を最高の権威とし、教師を指揮者(コンダクター)とする一つの真理探究の共同体。どう生きるかの問いを深め、かつその問いの解決を助ける能力の一部ともなる、いろいろな知的分野への興味や好奇心を育てる。

 人間は、刺激に対する反応、問いと答えの間が実に豊かで、答えも多様でありうる。下等動物のように一つの問いに対して一つの反応しかない本能的な機構や反射活動は、人間はむしろ退化していて、脳髄で分別し、考えて行動を選択している。ところが、現在の教育は、問いと答えの間が大変短くなっている。

 問いと答えのあいだに間をとることができ、ゆっくり選べる能力があるから、まちがい、見当違いが起こる。まちがいのあることが人間である証拠。結果だけにとらわれず、まちがい方をていねいに考慮することが必要。まちがいには、可能性ゆたかな選び方がふくまれている。

 選択に時間がかかり、とまどっている子どももいる。とまどいは人間が選択をしようとするときに、当然存在する。とまどいは、教えられた答えを記憶の中からただ反芻するより、より人間にふさわしい分別力を働かせている証拠。ためらいの中に、より大きな可能性が秘められている。

(苦手だった教科を)好きになるとは、学んだことによって、ますます多くを知りたくなったことであり、自分の世界が学びながらおしひらかれていくことの実感。

 人間は一人ひとりがそれぞれに選びながら発達し、自分という人間をつくっていくので、ものの考え方や感情、感性、違うのはあたりまえ。実に孤独な生き物であり、自分自身で選び、自分自身の人生を歩むほかないが、他人に依存しないでは生きられない。孤独と依存、この反対方向に働く力が均衡を保つためには、違いや孤独を前提としたうえで、なお他人と結びつくすべを人間はもっていなければならない。それが社会制度であり、学問や文化。

 いろいろな素質、感性、個性、経験をもったそれぞれの子どもたちが知恵を持ち寄って、違ったアプローチが協力しあう中で、いろんな見方が総合された結果として、一つの共通の真理が見つけられる。それぞれの違いを前提としながら結びつけられる契機をもつ。真理を媒介にして、本来違っているはずの人間が深いところで結びつけられる。

 科学的知性をそなえた独立したユニークな主体としての子どもたちの発達を促すこと、そのことをふまえて、いっそう質の高い人間連帯をつくり出すことに学校の主要な任務がある。



これを読み、子どもたちの抱えるストレスを
客観化することができました。

それから、
「外から与えられる絶対的な物差しへの同化に安定感を求める」
数年前に見た、大学の入学式の光景を思い出しました。
以前書いた、美の基準も他人に決めてもらっているのは、
日本人にしみついた教化教育のおかげかもしれませんね。


そして私自身、励まされたのが、この色にした部分です。

私のマラウイ生活を通じた学びのなかで、最も大きかったのが、
「人は間違いをおかすもの」
と、過ちや戸惑いを認め、成長を信じ、
待ち続けてくれた人たちとの出会いでした。

彼らに、心の深さや豊かさをわけてもらったような気がしています。


自分は挫折を知らないエリートで、間違いをおかすはずがない
完璧な人間であると自負している教師たちに、
私の過ちや戸惑いを否定され、
人格や私の存在をも全否定される喪失感も味わいました。

けれど、私の戸惑いは、
「より人間にふさわしい分別力を働かせてい」たのかもしれないと、
励まされました。

間違いをおかさない=下等動物であれと、
人類の進化を否定するものですね。


今朝、帰国後初めて、きれいな朝陽を見ました。
マラウイでも日本でも、きれいな朝陽は拝めますね晴れ

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Last updated  August 22, 2009 08:50:43 AM
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