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LAUNDRY ROOM

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闘病記9~10

  • ここは、私の、ごく個人的な「闘病記」で、■I の続きです。 縁あって私のブログサイトへ辿りついてくださった方々の、お知り合い、お身内、またはご本人、どなたであっても、 一人でも多くの方にお読みいただいて、皆様のバーチャル世界ではなく「現実世界」で、ぜひお役に立てていただきたく、公開することにしました。
  • 同じ病気ではなくとも、様々な場面での「検診」の必要性を、特に女性に、とりわけ、子育てで忙しい方にこそ知っていただきたく思います。 この手記をお読みになることで、そのことに思い至ってくださるのであれば、なによりです。
  • インターネットの公開性に考慮し、全て仮名で記述致しました。また、約10年前の出来事ですので、情報的には古い部分が多々あると思います。ご承知おきください。
  • かたいことを言って申し訳ありませんが、写真を含む画像も文章も全ての版権及び著作権は私にあります。万一御使用になる際には管理人へご一報下さい。特に無断での商用使用はかたくお断りします。

■  闘病記目次  ■

§[闘病記]癌との闘い
  ▼1.闘い終えて春
  ▼2.三年前の暑い夏
  ▼3.N病院との出逢い
  ▼4.産婦人科への迷い
  ▼5.インフォームドコンセント
  ▼6.深夜の対話
  ▼7.喪失、そして
  ▼8.産婦人科病棟の女達
  ▼9."乗り切る"という事
  ▼10.それぞれの春
(了)     ◆「あとがき」に かえて◆( 2005/10/18 日記 )


□     §[   闘 病 記   ]     □
        (■このページは9~ですが、目次から各章へジャンプできます)



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■    ベイビーピンクのブラインド(9~)    ■






       9."乗り切る"という事

Part10▼


    吐き気と嘔吐。
ピークの三日目が過ぎ、食欲が徐々に回復してくる。
髪の毛が少しずつ抜け始める。
白血球・赤血球共に量が減少してきて、院内での行動範囲や面会に制限がつく。
患者は食欲を旺盛にすることだけに専念する。
気力が勝負の鍵といわれる癌治療において、患者の個性とスタッフの献身的励ましとの調和が、大きく影響する部分でもある。

このように、副作用の監視をしながらの約4週間をひとつの治療サイクル(1クール)として治療がすすめられる。
むろん、癌細胞の種類や癌の進行具合その他の条件によって、それぞれに応じた治療が施されるし、回数も違ってくる。
発症年月の若干のズレがあるものの、入れ替わりしながらの私の戦友は、癌に限って言えば7名だった。
私を含めると、卵巣癌4名、子宮癌4名、計8名の患者仲間である。

    治療を始めた日にちも違えば方法も違い、副作用の出方もそれぞれ個性的だ。
だから患者どうしでの情報交換は、現実に役立つものとは言えない。
だがしかし、皆、互いの状態を気遣いながら、情報のやりとりをした。
自分の状態を話すことで自分自身の不安の解放をし、他人の状態を見聞きすることで自分も又同じように他から慈しまれていることを知る、とでもいうところだったのか。
 それぞれの状態に違いはあっても、一様に言えるのは入院加療が長きにわたるということだ。

    よほど積極的に"前向き"を意識しなければ、見舞いの友人や家族まで沈み込ませてしまう。
皆で「神様のくれた長期休暇」と言い合い、楽しむ工夫をした。
私は二十年分の空白を埋めるように本を読んだ。
コンピューターソフトの仕事は、次々と目まぐるしく変化する技術に対応すべく、マニュアル以外の本を読む時間を作らせてくれなかったから、私にとっては推理小説までが文化だった。
また、隣の部屋の早坂さんが絵を描いているのを見て、
(そうだ、私、絵が好きだったんだ)
と思い出し、見舞いの友に言ったら、さっそくスケッチブックとオイルパステルが届いた。
二十年ぶりの懐かしいオイルのにおい。
花と果物はふんだんにある。---絵を描いた。
画材にと、毬のついた栗が届いた。
窓から外を見ると札幌は、冬を思わせる北海道特有の晩秋の色をしていた。


「アタマにきた!ねぇ、ねぇ、又切るっていうの、あんたも言われた?」
中野さんである。
中野さんは、私と同じ種類の癌細胞を抱えた人として、そして彼女の治療が私に先行していたという点に置いて、私にとって一番身近な戦友だったといえる。
既に過去形でしか語れない人となってしまった中野さん。
彼女は時としてわがままと思えるほどの正直さで、医師達に喰ってかかったりもした。

私の化学治療の1クール目の初日に大塚医師の出席した北日本婦人科学会で、私と中野さんに共通の癌細胞について、その予後の悪さから、切除部分の拡大が話し合われたと、私も聞かされてはいた。
「リンパ節の切除でしょ?言われたよ。でも、先生が切りたがっている訳じゃないでしょ?
もう一歩確実な治療をしようよっていうことだと思うけどなぁ。」
私だって、せっかく傷が治ってきて、あと一度の化学治療を終えたら退院と思っていたので、確かに落胆はしたが、(先生にだまされた)という発想にはならなかった。
だが、中野さんは『だまされた』と言う。
この差は何だろうと考えながら、とにかく説得して、共に安心したかった。

「治療を断ることだってできるのよ。知ってるでしょ?先生は先生の知識と技量を総動員して再発や転移を防ごうと考えてるし、あなたは早く元の生活に戻りたいだろうしね。でも、治したくて病院にきたんでしょ?私は、おびえながら"普通の生活"はできないから、今、先生が最良だと思っている方法にゆだねることにしたの。」
言いながら、治療途中の者と退院を控えていた者との受けとめ方の違いには気付かないふりをしていた。
このあとも、何度か話し合ったが、結局、八十才を過ぎて人口肛門の手術を受けた水沢さんの言葉が、中野さんに決心をさせたのだろう。

「せっかく生まれてきて、心配してくれる人が一人でもいて、助けたいと思ってくれてる人がこんなにたくさんいるんだから、一日余計に生きれるためだけでも、手術してもらおうよ。」
と、水沢さんは八十年分の優しさを刻んだ痩せた両手で、中野さんの手を包んだ。

    中野さんは、人体のフィルターに相当するリンパ節の切除手術を無事終えて、近くの臓器に異変がないことも全て確認できて、晩秋の北海道には珍しい秋晴れの日に、さばさばとした顔で退院して行った。
その後、極端に雪の少ない十二月、クリスマスと正月を家族と過ごしたらと言う病院スタッフのすすめで、私と水沢さんも仮退院した。 年明けての、溜まっていた分の全部が一気に天から降ろされたような豪雪に、誰しもがうんざりしていた一月下旬、私と水沢さんは仲良く再入院し、それぞれ二度目の手術と治療を受けた。 中野さんは、あんなにゴネたことを忘れたように明るい顔で見舞いにきて、
「安心しなよ。リンパ節って、またはえてくるんだって。」
と、へんな慰め方をした。
「うん?中野さんは、リンパ節を取られるのがもったいないから、手術したくないって、言ってたんだ!!」
と、まぜっかえしながら、私は、思ったより手ごわい敵のことを考えていた。
(出来ることは全部やってもらった)と安心出来ないことを知ったからだ。

二年後に又、開腹手術をするという。
二年間、抗癌剤等の投与を受けながら血液検査を継続し、その上でもう一度開腹、生理的食塩水等で腹腔内を洗浄し、その洗浄水の細胞診を行うというのだ。
その中に異常細胞がみつからなければ、取りあえずは"治った"ということで、経過観察だけになる。
骨質が粗になってゆく股関節のためにも本当は卵巣喪失症に対するホルモン治療をしたいが、それは、癌細胞を暴れさせることになりかねないとも聞かされた。
中野さんも今度は、二年後の手術のことをきちんと受けとめていた。

    水沢さんと私は、二度目の退院も殆ど同じ時期で、他の入院仲間達と共に、日にちを合わせて外来に通った。
癌の闘病の"戦友"も、二週間部屋を共にしただけの筋腫の人も、内膜症の人も、切迫流早産の人も、それぞれが、『女病棟』でのつながりを、それぞれの元の生活の場へ大切そうに持ち帰った。
水沢さんは、やがて、外来の椅子に座って待つのも辛そうになり、半年後、ご家族に囲まれて、眠るように亡くなった。

最後に水沢さんを見舞った時の様子を私に知らせてくれた中野さんは、二年後の細胞診での結果がクロと出て化学治療を受けたが、肺に転移。
「全部無くなったらもったいないから、ちょっとだけ飼っておいてやったのに・・・裏切られたみたい。」
と、強気を装いながら、咳をしていた。
そして遠くを見る目で、
「大塚先生ね、とうとう私には最後まで、癌という言葉を使わなかったよ。"悪い細胞を徹底的にたたく"っていったら、"癌"に決まってるよねぇ。でも、まっ、言わないでって言ったのは私だから、有り難かったけどね。」
と言って笑い、
(人生観が変わっただけでも、この病気になった価値はあった)というような意味のことを続けた。
が、聞いていた私自身は、三度目の手術に臨む潔さが少しだけ後退するのを感じていた。
目の前で笑って話しているこの中野さんが治癒せずに亡くなるのだという現実を、その時にはどうしても受け入れがたいものに感じ、それなのに、自分にも同じようなことが起きるかもしれないという恐れだけは制御できないほどに大きくなっていく。

その夜はじめて、子の為でもなく死への恐怖からでもなく、自分のために、そう、可哀想な自分だけのために泣いた。
あれもしたい、これもしたい、あそこへもまだ行っていない。
私の人生はこれまでの、これっぽっちのものではないはずなのに、と、悔しさに震えて、自分を愛おしんで、自分だけのために思い切り泣いた。
この時ただ一度きりの自分だけの為の涙は、子どもの時の泣き寝入りのように、ぐっすりと寝てしまうまで止まらずに流れていた。
Part9▲





10.様々な春



    中野さんが亡くなった翌年の正月過ぎ、予定通りの私の手術結果はシロと出て、取りあえず、私とスタッフたちは、『勝った』といえるだろう。
延ばし延ばしにしてきた脚の手術も、受ける決心がついた。
(痛い、痛い)と顔をしかめて生きるより、同じ一日を心地よく過ごすために、信頼を培ってきた内藤医師に執刀してもらえるうちに、と。


    入院の長かった増川さんも無事に男児を出産。
その子は病棟で『私たちの子』と呼ばれ、『血のつながらない叔母』を自称するたくさんの女達に送られて、元気に退院して行った。

その後も私の隣のベッドは、何人かの女性達の様々な病気を受けとめ、癒していった。
病棟は、人を送り人を迎え、様々な春の、しばしの重ね合わせをし続ける。
切迫流産が落ちついて退院したのに一カ月後に出戻りしてきて「お帰りなさい。」と迎えられた人、
子宮外妊娠で入院した人、
深夜に妊娠中毒症で運び込まれ、意識不明のまま帝王切開した人、
無事に出産を済ませたのに予後の良くなかった人、
などなど、妊娠だけとっても多様である。

また、初潮以来、生理痛は自分の体質だから仕方がないと、市販の痛み止めで三十年もやりすごしてきて、卵巣嚢腫がほっておけなくなって手術した高田さんのように、自分達に施されなかった教育とその結果としての自分の無知さに、腹を立てている人もいる。
「だってそうでしょう?嚢腫ができたのも生理痛も、原因は子宮内膜症よ。その内膜症の治療を始めたら、ちいっとも痛くないのよ。毎月まいつき、人には分かってもらえない痛さに耐えた三十年は何だったの?」
通院しながら私を見舞っては、彼女は怒っていた。
笑っては悪いと思いながらも笑いをこらえるのに必死になりながら相づちを打つ私につられて、彼女は苦笑しながら、
「でも、私達って、ほんとに自分の身体のことを知らないよね。」
と、ため息をついていた。


    性教育、色々な切り込み方があるだろう。
めしべ・おしべは論外にしても、観念的に過ぎる道徳的学習法から、露骨な性交の説明に至るまで、いずれにしても、子供の生活体験を無視したものが目について仕方がない。
そのくせ、漫画を含めたごく身近な部分での性情報の氾濫ぶりは、節度という言葉をはさむ余地もないほどだ。
とはいえ、男がいて、女がいる。生命の神秘といい、女体の神秘という。
神秘ではあり、感動的なまでのしくみではあるが、いつまでも聖域視して無知のままでは、逆に、くすしき生命の器官をいたわれないだろう。

男女を問わず、臓器としての性器のみを学習するとしたらそれはおどろおどろしいかも知れないし、そんなことは医師まかせの方がよい場合も、確かにある。
が、生命の芽生えの不思議も、それを育む優しさも、慈しむ愛も、守る強さも、どんな断面で切ってみても命は美しい。
その美しさに気付かなければ、両性が互いを尊重しあうのはむずかしい。
子どもの世界で、個が個として認められ、尊重されるためにも、命の出(いづ)るまでの美しさを、親も教師も教えて欲しい。


    命がひとつ、光をみるまでの巧みさを知り、その必然性に気付いたとき、その美しさに私は驚嘆した。
その驚きは、どんな道徳的教訓よりも鮮明に、自分を含む全ての個の尊厳を伝えてくれた。
私自身の命の必然性を、信じることが出来た。

―ただひとりの私を、癌に連れ去らせはしないと、何とたくさんの人が力を合わせてくれたことか!―
 
この病気を通して得た女性器の知識は命のメカニズムを知るのに役だってくれて、男性器やそれを持つ男達にも等しく"共同作業者"としての栄光を帰すべきだと思わせてくれた。

全ての女性は、その身の内に小さな宇宙を持っている。
男も女も、生あるものはただひとつの例外もなく、その小さな暖かい宇宙で命の芽ぶきを得て、育まれ、光を得たはずだ。

時として、私の脚の障害と同じにその機能が損なわれていることもあるだろうし、また、図らずも途中でその宇宙を放棄しなければならないこともある。
それは子を産んでからのこともあれば、命のバトンを渡す以前のこともあるだろう。
だが、いずれにしてもそのことが彼女の全人格であるはずもなく、ひとつの属性でしかない。
その属性を認めた上での生きかたは、無数にある。


    願わくば全ての産婦人科病棟の窓にはピンクのブラインドがかかるように、そしてその全ての羽が開かれる時が来るように、と、私は祈る。
その時こそ女達は皆、受けた命のベストランナーとして、思い切りよく駆けてゆけることだろう。



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