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カテゴリ:TRIP & TRAVEL
先日の、最後の写真、あの場所から市内を一望できたという記憶、実は、私にはありません。
私があの写真を写すために立った場所の後ろは、炭住に住む職員へ畑として貸し出されていた辺りではなかったかと記憶しています。 つまり、下の写真の、この道の右が畑で、左側には林があったという遠い記憶です。 長い長いベルトコンベアが走っていますが、これは全く覚えていません。右方向がズリ山なので、この中はズリ(廃棄粉炭)がコンベア輸送されているのではないかと思いますが・・・ 全長600m以上はあるというコンベアの下をくぐって振り返ると、これは低いですが、ズリ山が見えます。 ズリ山と言う言葉は北海道のもので、九州の炭鉱ではボタ山と呼ぶ、と、一般的にはそうなっていますが、私が子どもの頃はズリ・ボタどちらも使っていました。 映画「にあんちゃん」など、九州の炭鉱(ヤマ)を題材にしたプロレタリア映画の影響かもしれません。 この「にあんちゃん」や「南の島に雪が降る」などを"幻燈映画"で見た記憶があります。 労働組合が元気だった時代、TVが普及するまでは、組合主体の"幻燈映画上映"も、子どもにはたいへん楽しみな娯楽のひとつでした。 ゆきつ戻りつです。1枚目の場所から少しだけ下って選炭場を見下ろしたところです。貯水池のようになっているところは、呼び名を忘れましたが、選炭場から出る粉炭交じりの水を貯めて沈殿させている装置だと思います。 これは、処理の仕組み自体は大きく違うのでしょうが、昔から良く似た様子で目に焼きついている貯水槽であり、これのために、私は長い間「選炭場」のことを「洗炭場」だとばかり思っていたのです。 この貯水装置の脇に、父の勤務する「修理工場」事務所がありました。 2枚目のズリ山の見えた場所からもう少し下って振り返って、塔屋を見上げてみました。 左側のベルト、ズリ山へではなく、興津(おこつ)からの地下ベルトから選炭場への輸送ベルトかもしれませんね。。。ちょっと不明です。 脚のギブスを外したばかりの5歳の春先、リハビリ代わりだったのでしょうか、出勤する父に連れられてこの道をぶらぶらと下って同伴出勤(!)し、事務所脇の小さなタンポポの丘で遊びながらお昼の「ボー」が鳴るのを待ちました。 あまり場所が特定されるのは好ましくないので、ここ以降の写真は掲載しません。。。 そのタンポポの丘すぐ近くの窪地に小さなアイヌの集落があり、私の幼児期から小学校低学年までの仲良しは、家の近所の子どもではなく、主にここのコタンの子達でした。 子どもとしての、あるいは人としての個性の問題だったのでしょうが、近所のどんな友よりも、このコタンの子達が、動きの良くない私に対しての気遣いに優れていて、 集落の大人たちも、常に子を見守る視線だったために、なにやらたいへん居心地が良かったのだと、長じてから理解した私です。 そのコタンに住む数家族の氏は殆んどが○○さんなので、そのコタンは○○部落と呼ばれており、子ども達は当然、氏ではなく名で呼び合っていたのですが、少し変わったその名にも、また、あきらかに異民族であるその面立ちにも何の違和感も感ぜずに、ただ、その大きな、たいへん綺麗な目には強く惹かれていました。 大人も子どもも、たった一人を除けば、とにかく優しげな、絵に描けば瞳の中にいくつも星を入れたくなるような大きく綺麗で魅力的な目を持っていて、イザベラ・バードが日本奥地紀行の中で絶賛しているのが、私にはたいへん良く理解できます。 私が怖かったたった一人の人というのは、仲の良かった子のおばあさん。 今思えば怖い目ではなかったのでしょうが、独特の様式を持つ昔ながらのアイヌの家の中、小さな窓の明かりも届かないような部屋の一番奥に、いつも気配無く座っていたおばあさんの口の周りには大きな刺青があり、話す言葉も私には全く理解できなかったため、近寄ることさえできずにいました。 でも、こうして考えてみると、あの頃のコタンの中では、まだまだアイヌ語は「生きて」いたのです。 私も自分で発することは殆んどなかったものの、彼らの中で交わされるいくつかの言葉は、ごく自然に理解できていました。 残念なことに小学校に上がってから以降、多くの差別の中で、仲の良かった子も呼び名を変えて、学校では殆んど言葉を発することも無くなり、私と一緒に連れ立って帰る道すがらでは饒舌になるものの、彼女自身が一切のアイヌ語を封じ込めてしまったため、今となっては幼い時になんと呼んで遊んでいたのかさえ思い出せません。 その部分だけスッポリと記憶から抜け落ちているのは、彼女の強い思いが私に通じて、もしかしたら、呪詛をかけられたようになっているのかも知れないと思うことがあります。 小学校に入ってからは、幼い2年間に私が慈しまれた全てをかけて、私が盾となって彼女を、欠けたところがない彼女を、まるで守るような日々でした。 「理不尽」という言葉を知らないながらも、抱えていた思いは多分、ソレだったと思います。 近所の友に、なぜ「あの子と遊ぶのはやめなさい」と言われるのか? なぜ彼女に向けて陰から石が投げられるのか? なぜ、他の子は、彼女の柔らかな笑顔で満たされることがないのか? こんなに可愛くて、こんなに優しくて、 こんなにも楽しいのに! でも、私はもともとが社交的な性格だったのでしょう。 幼い時にギブスのために封じられていた同年代の多くの子達との交わりにも夢中になって、すぐに、彼女だけが友というわけではなくなり、小学校3年生の時のある事件をきっかけに学校の中で彼女の姿を目にすることがなくなったことにも、大きく動揺することも無く、ごく自然に、アイヌの友のことは「思い出」になってしまっていました。 それから10年近くたって、アイヌ民族の内からの解放運動がさかんになった頃に初めて、小学生の私が感じた悲しみと怒りの正体に気付きました。 その当時の友にもっともっと寄り添えなかったことを悔やみ、民族から言葉を奪い去ることの罪の大きさを、どんな形でもいいから、私が伝えられる限りのところで伝えたいと思うようになりました。 ■「魔神の海」前川康男著 ■ を読んだことも、この気持ちを後押ししてくれました。 今回の釧路行きでは、「友よ、済まぬ」の思いを新たにするためにも、青雲台の高台からコタンのあった窪地への道をどうしても辿りたかったのです。 また、「札幌こどもミュージカルグループ」での活動に何故あそこまで入れ込んだのか、わが子にだけはどうしても知って欲しいので、いつもにも増して個人的なことですが、ここに書き記しておきます。 ☆指導者の細川真理子先生に深く感謝! ☆また、 6歳~70歳までとたいへん幅広く しかもわずか数十名の聴衆であるにも関わらず、 飽きさせることなく、2時間もの講演をして下さった 『南方熊楠』研究で広く世に知られる 鶴見和子さんに心からの賛辞を!! ☆さらに、 グループの子達に楽しい交流を経験させてくださり ムックリを伝えてくださった 二風谷のみなさんに心からお礼をお申し上げます。 【わが子へ】こういう思いを抱える母としては、 コミック「うしおととら (藤田和日郎)」、たいへん面白い漫画ですが面白いだけに、アイヌ民族に関する安易な記述と誤った概念を伝える内容が残念で、あそこで譲ることはできなかったのですヨ(T_T) [生活・趣味]ランキングに登録しています ここをクリックで1票です どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m なお、前々回の「炭鉱展示館模擬坑道」の様子で、私の写真を見ただけでは、実際の機械の動きが充分ご理解いただけなかったのではないかと思いますので、採炭の様子の動画をたくさん掲載しているコンテンツをご紹介します。 くしろ石炭.COM「採炭の様子」動画ページ←こちらから お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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