カテゴリ:歴史あれこれ
近畿日本鉄道、通称、近鉄・奈良線に「八戸ノ里」という駅がある。 現在の大阪府は戦国時代には摂津、河内、和泉の三国のことをいい、 ここは河内の中に属する。 そして、北、中、南と分けて呼び、ココは中河内になる。 参考までに、 奈良朝のころまで、大阪湾の入り江はもっと深く、 現在の大阪市街地は松屋町通りがなぎさであり、 心斎橋も船場も海底であったようだ。 ![]() これにはビックリした! あの大阪ミナミの繁華街、商売問屋で繁栄している船場が海の底とは!!!! おっといけない‥ 話を元にもどす。「八戸ノ里」の事だった。 ![]() しばりょうはこの地の歴史について触れている。 (引用文)-------------------- 私が住んでいる土地は河内の中でも筋目の河内ではなく、 大正の好況期の大阪市(摂津)の人口膨張のために かさぶたのように市街化しただけの土地で、 河内の国がもっているような風土的伝統からは遠い。 (中略) 駅名は八戸ノ里という。 急行も準急もとまらない。 「八戸とは、なつかしいですな」 岩の手県出身の訪客が、駅名への親近感をこめていったが、 しかし残念なことにこの駅名は 岩手県や青森の一戸、三戸、八戸といったような 由緒ある地名ではない。 河内の土語で、小さな泥沢のことをトボリという。 溜りのなまったものかもしれない。 それまで河内を流れていた大和川というのは、 大変な川だったらしい。 幾筋にも支流にわかれ、 大雨のたびに決潰して野を水浸しにした。 荒れるたびに遊水地ができ、やがて泥沢になった。 それが、トボリである。 (中略) 「河内の泥沢地をうずめて田畑にできないか」と片桐且元は考えた。 実際に労働をした人が山沢という人物であったことは、 私の近所に大庄屋の屋敷構えを いまなお遺していることでもほぼ間違いない。 たまたま分家の当主が中学の同級生で、 八戸ノ里という在所の名のいわれを教えてくれた。 「入植したのは七人だった。やってきてみると、 この土地にもとから住んでいる人がいて、 あわせて八戸だから八戸ノ里というふうにいわれた。」 ------------------------ この元から住んでいた人が肌瀬という人物。 珍しい苗字だと思い、調べてみようといろいろ検索してみたが、 残念なことに出てこなかった。 たぶん肌瀬という苗字の家はこの地で現存しているだろうし、 また、よその土地に住んでいても、 この八戸ノ里出身の人である確立が高い。 そして、 当時実際に労働をした人が山沢氏を調べたところ、 いかにも"大地主"らしいエピソードを見つけた。 近鉄奈良線計画の時、どうしてもこの山沢家の広大な土地をまたがないといけない。 それで、"自分の家の近くに駅を作ること"を条件に八戸ノ里駅ができたという。 山沢氏の条件により進路を無理やり変えてしまうことになり、 近鉄奈良線の生駒行く線路はグニャリと曲がってしまったらしいのだ。 金持ちの権力はすごい!! それに、駅南側にある「西友」は もともと山沢氏の土地で(もしかして今も?)、 ボウリング場だったのを改装したものであるという。 ![]() どの土地にも昔々からの旧家は存在しているが、 私たちの住む土地の街づくりに、 それら旧家の権力の影響が必ず残っているはずだ。 私の住む松原市も当時でいうところの南河内に属し、 史跡もいろいろある。 一度、腰を据えてジックリ自分の住む土地について調べるのも面白いだろうな‥ ひょっこり意外なことがいっぱい出てきて、 身近な物事が、違った色で見えるかもしれない。 ![]() ![]() 歴史のなかの邂逅〈1〉空海‐豊臣秀吉 司馬遼太郎 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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