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Manachan's World-東京下町日記

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2012年03月12日
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カテゴリ:東京下町の暮らし
昨日は、「3・11」から一周年。

夕飯が終わって、一家4人で、1分間、黙とうしました。6歳の娘は、黙とうの趣旨がちゃんと分かって、大人しくしてました。3歳の息子は、まだまだですね。

一分間の沈黙の後、子供たちは、いつものウルトラマン談義に戻りました。

平和ですねえ。こんな日々が送れるのは、実に有難いことです。国際結婚家庭の我が家、震災の前後で、本当にいろんなことがあって、今こうやって、一家揃って東京で暮らしているのが、不思議な感じさえします。




まだ、震災前の話になりますが、オーストラリア・ケアンズにある妻の実家で、父親が難病にかかって、長期間の介護が必要になり、妻は、「自分が介護する。子供たちも連れていく」と決心、それを告げられたのが、2010年の11月頃でした。

12月には、私を除き、全員が渡豪。娘は、地元の公立幼稚園(Prep school)に編入しました。

年が明けて、波乱の2011年になる。2月には、妻や子供たちの滞在先ケアンズを、922ヘクトパスカルという、超巨大サイクロン(台風)が襲い、隣り町タウンズビルの病院で、しばし避難生活を送りました。

そこから一息ついて、日本へ一次帰国したのが、3月2日。その9日後には、マグニチュード9.0、地球の歴史に残る東日本大震災が発生。東京も大きく揺れました。交通網も途絶。私は職場から、夜中のレインボーブリッジを歩いて渡り、家まで帰りました。

この震災で、東京がエネルギー源として依存している、東日本太平洋岸の発電所がほぼ全て被災。首都は、一転して電力不足に。

3日後には前代未聞の計画停電、電車もろくに動かない、信号もつかない、高速道路のサービスエリアは営業停止、スーパーではミネラルウォーターやトイレットペーパーの買い占め、そして、極めつけが福島第一原発の放射能漏れ事故!

国際結婚という微妙な立場ゆえ、私は震災2日後には、「私以外の家族全員をケアンズへ一次避難」を決意、6日後にはそれを決行。

その後も、電力不足と品不足、毎日数回起こる余震、液状化でひび割れた路面、原発からのセシウム降下・・・渋谷や銀座の繁華街の灯は消え、東京から会社と大使館が次々と逃げる。ここの暮らし、本当にどうなっちゃうんだろうかと思ったのが、3月下旬。

4月上旬、季節は巡り、東京にも見事な桜が咲く・・・いつもと違って、物悲しい。

日本中が自粛ムードに包まれるなか、しかし、日本の総力を挙げたインフラ復旧は超スピードで進み、4月上旬には被災地への鉄道・高速道路がおおむね開通、放射線量もようやく落ち着き、4月5日には、家族を東京へ呼び戻すことを決意、12日に決行。

その後も、妻の父親介護、娘のケアンズでの幼稚園などがあり、日豪間を行ったり来たりしましたが、昨年12月からは、ここ東京をベースに、家族の生活が営まれています。節電などありましたが、5~6月頃には、東京都心繁華街の客足も戻り、ほぼ全てが元通りになった感があります。

でも、津波・原発事故被災地の復興は、これから長い道のりでしょうね。じっくり支援していきたいと思います。




震災直後の1~2週間に、書いたブログ日記を読み返してみると、当時の緊迫した状況と、苦悩する自分が思い出されて、興味深い。


3月14日「それぞれの持ち場で」 

私が一番好きな日記は、これですね。

今日から、前代未聞の計画停電が始まりました。場所によっては、一日3時間程度の停電になり、郊外からの通勤電車も、かなりストップして、通勤に大いに支障が出ました。

近所のスーパーに行っても、ミネラルウォーターやパンなどは、ほとんど売り切れて、入荷予定さえありません。首尾よくミネラルウォーターを見つけても、せいぜい一人一本

福島原発の事故には、誰もが一喜一憂しています・・・放射能が首都圏まで来るかもしれないという恐怖と隣り合わせです。関東以西に逃げたい人も多数いる。

ボランティアとして、東北の被災地に駆け付けたい気持ちもあれば、危険を避けるため、関東以西、あるいは、外国に逃げたい気持ちもあるのが、正直なところです。

複雑な思いを駆け巡るなか、私は東京で頑張っていこうと決めました。なぜなら、私が社会のなかで、いま与えられている「持ち場」が、東京にあるからです。



3月15日「原発最悪のシナリオは?」

原発ショック、東京で恐怖が最高潮に達した3月15日。私が、妻の実家・親類から猛烈な「子供たちを帰せ」コールを受けた日でもあります。それを予期して、手を打っておいたから混乱なかったですけど・・・

・今が最悪なのか?もっとひどい被害になるのか?
・放射性物質が、どこまで放出され、どこまで拡散するのか?首都圏まで来るのか?健康被害があるレベルになるのか?

いま情報が氾濫していますし、世の中が不安心理に支配されている面もありますが、正しい知識を身につけ、冷静に判断しようと思います。

つくづく思うのは、原発危機を封じ込めるプロセスの「全体像が見えない」こと。何が、どこまで達成されれば、解決したといえるのか?そのために、何を行うべきで、いま行っている作業が、どこに位置づけられるのか?



3月16日「臨時首都・大阪」

我が人生で、西日本をこれほど頼りに思った日は、なかったかもしれない・・・

大震災の余波を受け、東京の暮らしも今、大変です。そもそも、電力がなくて、いつ停電するか分からない、通勤電車も混乱、ガソリンも品薄で、給油所では1~2時間待ちが当たり前、ミネラルウォーターさえ買えない・・・こんな状態では、個人消費など盛り上がるわけないし、企業活動を維持するだけでも、青息吐息です。

停電もなく、ガソリン等物資も潤沢にあり、放射能漏れの心配も基本的にないと思われる名古屋以西の方々にお願いです。

どんどん消費して、経済を盛り上げて、東北と東京を救ってください!!
関西地区、特に大阪が、先頭に立って、日本経済を引っ張ってください!!



3月17日「家族、日本脱出!」

東京脱出する外国人が、首都圏の空港に殺到した日・・・私が苦渋の選択をした日でもあります。

成田空港は、これまで見たこともない、異様な雰囲気でした。日本を脱出する外国人でごった返し、フライト3時間前から並んでも、チェックインカウンターで2時間待ちは当たり前、その後もイミグレ前で長蛇の列・・・

世界中のあらゆる地域から来たと思われる、様々な肌の色、髪の毛の色をした人々が列に並び、構内アナウンスで呼ばれる人も、ほぼすべてが外国人の名前。日本語よりも、中国語を聞く頻度の方が高かった。

(コメント欄のやりとり)
東京よりもずっと原発に近いところで、ガソリンがないとか、病気の老人を抱えているみたいな理由で、逃げたくても逃げられない人も大勢いるわけで、

彼らからみれば、東京みたいな「安全圏」に居ながら、子供を海外避難させるのは、身勝手に見えるかもしれません。正直、後ろめたさも少しあります。

でも、国際結婚した私の立場からいえば、どうしても、こういう選択をせざるを得なかったのです。

いま、一人暮らしに戻って、寂しいですが、肩の荷が下りてほっとしている面もあります。



3月18日「東京ベイエリアの液状化」

家族を豪州に戻して、気楽な一人暮らしになり、これから被災地を支援する方向に自分の時間を使いたいと思いました。でも東京でもかなり被害ありますよねえ・・・

私は通勤途中、毎日、新木場駅を通るのですが、あの辺に行くと、いつも埃っぽい。地震で、地中から噴出した泥が乾燥して、舞い上がっているのです。色は黄色っぽい。

自転車で走ると、道はボコボコ、波打ったり、大きな穴が開いたり、バス停が陥没したりしています。かなりの被害だと、一目で分かります。



3月21日「茨城の野菜を買おう!」

「風評被害」という、2011年の流行語(?)が流行る前から、この問題を懸念していました。

食べ物のことで、なぜ風評被害が起こるのか?それは、発達した市場経済のなかで、生産者と消費者とが、遠く離れすぎたからです。

都会に住んでいると、農村部の生産者の顔が見えない。だから、同じ野菜を買うのでも、茨城県産もあれば、熊本県産もある。茨城方面が放射能汚染されたと聞いただだけで、消費者は熊本産に簡単にスイッチする。そのことにより、茨城の農業は潰れる・・・。

もう、そういう悲しい関係、これで終わりにしませんか?

我々の同胞であり、かつ被災地である福島や茨城の農業者を支えませんか?

私は、「福島、茨城の農産物や魚は食べない方がいい」と、Twitterで得意そうに吹聴している奴らの気がしれない。



3月22日「外国人が逃げた理由」

大震災は、日本人にとって恐怖でしたが、日本に住む外国人が感じる恐怖は、その比ではありませんでした。

1年経って、振り返ってみると、私の予想した通りになりましたね。特にここが、


あと数ヵ月後か、半年後になるでしょうか、外国人が日本(主に首都圏)に戻ってくるとすれば、これまで以上に、日本の熱烈なファンというか、日本を積極的に評価する外国人が中心となるのでしょう。逆に、それほど日本に思い入れを抱いていない外国人は、おそらく日本に戻ってくることはないでしょう。



3月26日「いわき市へ、救援物資を届けに」

被災地に行って、原発もそうですが、津波被害にショックを受けた一日でした・・・。

私は都内でガソリンを仕入れ、携行缶に入れて車に詰め込み、水を入れたポリタンク、オーストラリアのワイン、台湾のお茶などと合わせて、支援物資パッケージをつくって、いわきまで送り届けました。

私の友人宅は、福島第一原発から、直線距離で45kmほどで、避難区域の外ではありますが、放射能への懸念から、多くの人が県外に逃げた結果、商店や病院も多くが営業できず、市民生活に支障が出ているようでした。

しかしそれ以上に、ショックを受けたのが、津波被害。いわき市近辺では、海岸線から1-2kmまで水に浸かり、海岸沿いのエリアは、車や船が横倒しになり、大小ゴミが散乱し、無人の室内がめちゃくちゃになっていたり、まさに「惨状」。あまりの凄さに、言葉を失いました。



4月1日「原発リスクと現代生活 」

これが最後です。関東では余震が一番ひどい時期でしたが、家族を呼び戻そう、リスクと共存しようと、腹をくくっていた時期です。

原発事故が依然として厳しい状況にあるなか、いま関東に暮らすということは、半分の希望を持ちつつ、残りの半分は「何があっても受け入れる」という覚悟が必要なのかも。

結局、どこに住んでも、どこに逃げても、リスクと隣り合わせ。それが現代生活というものです。

私は少なくとも、リスクを避けて住まいを決めるよりも、自分や家族が生きる意味のある場所を選んで住みたいと思う。





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最終更新日  2012年03月12日 05時59分14秒
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