健全な男女共同参画を考える!

2007/09/24(月)08:49

男は男らしく 女は女らしく

ジェンダー(ジェンダーフリー)批判(149)

「男は男らしく 女は女らしく」(渡部昇一著)は、ジェンダー(ジェンダーフリー)の間違い、異常性を明瞭に指摘している。多くの日本人、特に学校の教員、学者、行政の職員に読んでしっかり勉強してもらいたいと思う。  本日は、まえがきから一部を抜粋します。  「共産主義という妖怪が欧州を徘徊している」という言葉は、半世紀ぐらい前の学生の耳にも入っていた。ところが、ここ数年来、日本の義務教育の現場では「ジェンダーフリーという妖怪が徘徊している」ということがよく目に触れる。  フランスの社会学者クリスティーヌ・デルフィ女史の説によると、文化や社会が作り出した”男らしさ” や ”女らしさ”の区別がジェンダーで、生物学的な性差がセックスなのだそうだ。  では、セックスとジェンダーはどんな関係にあるのだろうか。まともに考えれば、生物学的な差 ―厳然として動かしがたいさ― から由来する社会的・文化的な差がジェンダーと定義するのが普通であろう。しかし、デルフィ女史は「ジェンダーが解剖学的セックスを作り出した」と主張する。おかしくはないか。私はこれを狂人の思想と考える。発想が完全に倒錯しているのだ。  デルフィ女史の考え方は「ラディカル・唯物論的フェミニスト」と言われるそうだが、八木秀次氏は、「これはマルクス主義フェミニズムを一層先鋭化させたものに過ぎない」と指摘している。  ソ連の解体、毛沢東主義の壊滅、ポル・ポトの残虐政策の暴露などによって、いまさらマルクス主義でもないと普通の人は思う。しかし日本の女性官僚や女性東大教授の中には、”ラディカル・唯物論フェミニストたち”が入り込んで、日本国民全部を法律によって洗脳しようという計画を立て、自社さ連立政権という最悪の意味での政策的不倫内閣時代に法律化に踏み出すことに成功した。 この陰謀 ―あえてそう言いたい― にのせられた地方自治体の教育現場では、校外宿泊学習の際に男女同室で寝泊りさせたり、男女同じ部屋で体育着に着替えさせたり、騎馬戦を男女混合でやらせられたりすることが各地の小中学校で起こっているという。なにしろ高校家庭科教科書の編集者の一人である大沢真理・東京大学教授はこう言っているのである。 「女で妊娠したことがある人だったらメスと言えるかも知れないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自身はない」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば・・・』より) 妊娠しなければメスでない、つまり解剖学的に女性でないとすれば、数百年にわたって欧米の女子教育を担ってきたカトリックの修道女たちは、自分を女性とは言い切れない人たちみたいになってしまう。私はすぐれた修道女の教育者を多く知っているが、最もはっきりと「女性らしさ」の重要性を教える人たちだった。 「ジェンダーがセックスを作る」というデルフィ女史とその亜流たちの主張が正しいとすれば、彼らの主張するいわゆるジェンダー・フリー社会が実現すれば、理論的にはセックスの差しての男女もなくなることになるが、まともな頭の人が考えうることではない。まともな男女関係を持つ一夫一妻のまともな家庭を作ったこともなければ、まともな子育てをやったこともなく、またそういう意志もない女性たちの狂った願望が日本の文化と伝統を法律によってひっくり返そうとしているのだ。恐ろしいことではないか。

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