見たまま、感じたまま、思ったまま

2006/07/09(日)16:54

アダンの画帖~田中一村伝

読書、映画、テレビなどのこと(69)

♪それは絵なのに アダンの木の 向こうで波が揺れている ♪それも絵なのに ビロウの茂みで アカショウビンが鳴いている。 2005年の徳島ライブ、第2部のピアノ演奏が終わって、再びギターを担いで勇造さんが歌いだした。 田中一村と言う画家が居たことを知ったのはその時が初めてだった。 歌から、旅の果て奄美にたどり着いてそこで死んだ画家であろうと言うことはわかったけれど、それ以後も勇造さんの歌の事以上は知ろうとしていなかった。 先日、スピッツのチャーさんのサイトでもこの画家に触れていて、思い出して色々と検索してみて興味が沸き、手に入れて読んだのがこの本だ。 田中一村。本名田中孝。 明治41年に生まれる。父親は仏像彫刻家だった。 父親の血を引いたのか、幼いときから絵に関しては神童の名前を欲しいままにした。学業にもすぐれ、芝中学には授業料免除の特待生として入学。 18才で東京美術学校(現在の東京芸大)に入学。花の6年組(卒業が昭和6年だったので)と呼ばれ、同期生には東山魁夷が居た。入学時から、教授達には「教えることなし」と言われる天才ぶりであった。 しかし、父親の病気と自分の結核の悪化が重なりわずか3ヶ月で退学を余儀なくされる。その後母親、弟が相次いで逝去、一家を支えるために色紙、木魚、帯止めなどを制作して糊口をしのぐ。 更に父親ともう一人の弟が逝去。自分の芸術を理解し陰に日向になり支えてくれる姉の喜美子と共に千葉へ移り住む。この年30才。 39才で青龍展に初出品で入選するも、選者の画家と意見を異にして翌年から絶縁となる。 以後中央画壇からは遠ざかり、売るための絵ではなく自分のための絵を描くために精進するようになる。 中国、四国、九州へのスケッチ旅行で南国のエネルギーに魅せられる。 50才。奄美の地で自分の集大成となる絵を仕上げるべく、全てを売り払い単身で奄美へと旅立つ。 奄美では職工として働きお金を貯めながら絵を描く生活を繰り返す。 服は着の身着のまま、家で自給した野菜を主食とし、赤貧洗うが如くだった。 2度の脳卒中や心臓発作を乗り越えて、数十点の作品を残す。 奄美では絵の上手いへんてこなじいさんで通っていたが、誰も一村を優れた芸術家とは知らなかった。 背が高く、眼光鋭く、はきはきと歯に衣を着せず物を言ったが、誰にも誠実で思慮深い態度で接していた。 ある画家志望の青年は、一村の眼光が鋭いために正面に立てなかった。 ある青年は、なんでこんな爺がこんな凄い絵を描くのだと怒り出した。 1つの鳥や虫を描くために、その生態を図鑑や文献で調べて、何日も何日もその対象を観察し、何枚もスケッチを重ねて全てが頭に入った後に描き始めた。 ♪感じたことを 形にしたい 願いはそれだけ ♪一輪の花を 一本の草を 一匹の虫を 一個の石を 描く 晩年、焼き物の窯元である宮崎夫妻と親交を厚くして、彼らの薦めで、個展を開こうとする。しかし、そのささやかな希望も突然の一村の死によってかなうことはなかった。享年69才だった。 彼の死語、残された絵を見た人たちは、あのじいさんがこんな凄い絵を描いていたのかと驚き絵の前に立ちすくんだ。 ♪人知れず 報われず 奄美に果てた ♪田中一村 人は今気づき 残された絵の前に立つ 一村が死んで3年後、宮崎夫妻などの尽力によって、一村の個展が奄美で開かれる。芸能、芸術に造詣の深い奄美の島民に大きな衝撃を与える。 鹿児島では、普段1万人も集まれば良い方の美術関係の展覧会に4万人以上の人が集まる。 これが元になりNHK教育テレビでの「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の画家田中一村」が放映され大きな反響を呼びこの番組は何度も再放送される。 南日本新聞に一村の生涯を書いた「アダンの画帖」が連載される。 それをまとめたのがこの本だ。 平成5年、6年。一村の絵が中学、高校の美術の教科書に採用される。 平成13年、奄美に田中一村美術館が建立されて一村の殆どの作品を見ることが出来る。 全国を旅している勇造さんも恐らく奄美で一村の絵に出会ったのだろう。 そして、絵の前に立ちつくた時にこの歌が出来たのだろうと思う。 絵も勇造さんを引きつけたが、何より彼を引きつけたのは一村の生き方だったに違いない。。 京都洛星高校と言う名門校に入りながら、フォークソングに出会った事により学生運動に参加、運動の挫折後も大学に残っている事に矛盾を感じて大学を自ら辞めた勇造さん。商業ベースに乗ることを嫌い、自分が生きるための歌を作り歌って全国を旅している勇造さんが、中央画壇に決別し、売るためではなく自分を納得させる為に絵を描き続き異邦の地に果てた画家の生涯に自分を重ねたに違いない。 一村の絵を見た多くの人々が感じた感動も、その絵の精緻な美しさだけではなくて、その絵に込められられた一村の生き方そのものに対してだったのだろう。 いつか奄美に行くことがあったら、一村美術館に立ち寄って彼の絵の前に立ちつくしてみたい。そして自分の生き方を問うてみたい。 ♪それは絵なのに アダンの木の 向こうで波が揺れている ♪それも絵なのに ビロウの下で アカショウビンが鳴いている。

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