8時45分 三宮

西村喫茶店の前の街灯にもたれかかるようにして、彼は立っていた。

朝はぽかぽか良いお天気だったのに、夜は心地よい程度に冷え込んでいたが、
そのすっかり夜の空気の街の中で、
わたしのヒールの足音を聞き顔を上げた時の彼の笑顔は、
かえって朝会った時よりも一段と明るく、少年のようだった。
頬っぺたが紅潮し、青い目がキラキラ輝いて、お姫様みたいだった。

「You made it!!」

と彼は興奮していて、わたしも息を整えようにも笑顔が溢れて困難なくらいだった。

門限ぎりぎりの電車の時刻はそらで覚えていたから、
1時間ぐらいだったらお茶出来るけど、と言うと、
本当に嬉しそうにドアを開けてくれ、わたしたちは二階の喫茶室へ案内された。

彼のお父さんが昔軍隊で岩国の基地に居た事が有って、
その話を聞いて育った彼は、小さい時から日本に憧れていたと言う。

大学へ進むお金が無かったので、高校を卒業してすぐ空軍に入った彼は
やがてやっぱり大学へ行きたいと思って、ジョージア州サヴァナの警官になって貯金をして、アトランタの大学へ進んだのだと言う。

それだけでも、ごく普通に、しかも推薦で入学して、のほほんと
大学生活を送っているわたしには凄いお話だったのに、
彼はその上、経済学部で第一外国語を一つ選ばなくちゃいけなくて日本語にしたけれど、
なんだか上達しなさそうだったのでウエーターをしてお金を貯めて
日本に一年留学することにした、将来は国際的な企業に勤めたい、と言うのだ。

わたしは感心してしまった。
この人は、誰からも何も与えられずに、自分で自分の人生を切り開いている。

なんだかレット・バトラーを思い出してしまって、
それから、なんの不自由もなく育ったわたしや周りの同級生の人生と比べてしまった。

猫舌なのでいつも喫茶店では冷たいお紅茶を頼むのに、
なんとなく子供っぽい気がして、彼と同じくコーヒーを頼んだ。

慣れた手つきでクリームとお砂糖をこれでもか、と入れて、凄い勢いでかき混ぜる彼を尻目に
こういう喫茶店のコーヒーは美味しいかも、と、ブラックで飲んだ。
舌を火傷しそうだったが、苦いのに美味しい、わたしの気分ととてもマッチした味だった。

ただ、笑うたびに、歯がコーヒーに染まって真っ黒な気がして、舌をもぞもぞしていた。

初めて出会った人と、あんなに色々話したのは、後にも先にもあれが初めてであろう。

訊きたい事が山ほどあった。
言いたい事も山ほどあった。

1時間なんてあっと言う間に過ぎて、再びわたしたちは
今度は梅田行きの各駅停車に乗っていた。

今回は座席が一杯空いていて、深緑色の座席に並んで座ると、その瞬間すごく大人っぽい、いい匂いがした。

コロンが匂うほど近くに座って、話をしながら顔を見合わせると、
喫茶店で向かい合わせに座っていた時とは比べ物にならない程、間近に顔があった。

なんだか、とても悪い事をしているような気がしつつも、
まだ英会話には相当の集中力を要したので、あんまり色々考えてもいられなかった。

急に真剣な調子で彼が
「君にどうしても言っておかなきゃいけない事がある。」と言った。

なになになに??

実は結婚してる、とか言われたらどうしよう・・・、指輪はしていないけれど、などと
わたしは内心べそをかきかけていた。

すると、彼は実は自分が29歳だと言う事を白状した。

嘘つくつもりは無かったけれど、まさか君が19歳とは思わなくて、
びっくりしてついサバを読んでしまった、という説明だった。


10歳違いかぁ。


わたしは何故かその方が26歳よりももっと良いような気がした。
嘘を付かれた事には、不思議と腹が立たなかった。

10歳ぐらい上じゃないと、生意気なわたしは素直に尊敬なんて出来ないかもしれないし、
などと、また、マキが言っていた事を考えていた。

夙川で降りて、甲陽沿線へ歩き出した頃、彼がとうとう訊いた。

「Do you have a boyfriend?・・・Please say No.」
「I'm sorry・・・」

電車が来るまで約3分、夙川からわたしの駅まで約1分。
思い通りとまではいかない英語で、わたしは一生懸命、正直に話した。

別れ話は出ていないけれど、わたしはもう多分ダメだと思っている事。
向こうもそう思っているかもしれないし、もしかしたら夢にも思っていないかも知れない事。
大好きだった人だから、出来るだけ傷つけたく無い事。

すると、ブルルは「最初は友達でいいから。」と例のさわやかな笑顔を残し、
なんとわたしたちはビジネスマンのように神妙に握手をして
わたしの降りる駅で別れた。

あれから、彼が年を偽った事と、わたしが彼氏がいるのにブルルとお茶した事は、
話し合いをして約束をでもしたかの様に、
二人の間に話題に上らない。

わたしたちは二人共、嘘が大嫌いだ。

個人的につかれた嘘でなくても、公への嘘のばれた芸能人や政治家は、
普段の仕事ぶりがいかに好きでも、大嫌いになる。

大抵、セカンドチャンスは与える事も無く、厳しい。

そのわたしたちだから、自分の、そしてお互いの、
一度きりの不誠実は、忘れた振りをしていたいのかもしれない。



「出会い」終わり。







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