011530 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

麻仁曽山より

麻仁曽山より

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

manison

manison

カレンダー

バックナンバー

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

カテゴリ

カテゴリ未分類

(12)

田舎

(15)

旅行

(19)

風景

(67)

健康

(3)

歴史

(10)

家電

(0)

趣味

(26)

小説

(17)

闘病

(15)

温泉

(3)

ペット

(10)

料理

(1)

雑感

(16)

昔話

(6)

日記/記事の投稿

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2019.06.11
XML
カテゴリ:歴史
○保元の乱:戦いの様子
 保元元年(1156)7月11日未明、崇徳上皇と藤原頼長、そして彼に従う源為義以下の武将たちが籠もる白河北殿に対して、後白河天皇方の武士たちが攻撃を始めた。源義朝・信西らの意見によって夜討ちによる奇襲が進言され、結局藤原忠通が未明になって攻撃を命じた。
 奇しくも崇徳上皇方についた源為義の子為朝も夜討ちを進言したが、藤原頼長が王者の戦いに奇襲はそぐわないという理由で却下された。軍兵の数が揃うのを待ったとも言われる。
 攻撃陣は源義朝・平清盛・源義康(足利氏の祖)の三手に分かれた総勢600騎。先手を打たれた崇徳上皇方は源為義とその子らが中心となって必死に戦い、これをよく防いだ。戦いは長引き、第二陣として源頼政らが派遣された。結局、白河北殿の隣の藤原家成邸に放火することで防御が困難となったため、崇徳上皇や藤原頼長を始めとして上皇方は白河北殿を脱した。辰の刻(午前8時ころ)らしい。頼長はその際、顎に流れ矢を受け重傷を負った。
 崇徳上皇は脱出後、仁和寺に入って降伏。頼長は南都で傷がもとで亡くなった。義朝は東国へ逃げる途中家臣の裏切りによって暗殺され、その子義朝一行とはぐれた頼朝は捕らえられた。
 戦いは数時間で終わったが、朝廷内の対立が武士たちによる武力抗争によって決着を見るという例となった。忠通の子慈円が著した「愚管抄」には、これ以後「武者の世」になったとの記述がある。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.06.11 22:15:48
コメント(0) | コメントを書く
[歴史] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.