「仕事のできない人」の傾向について。
これまでいろんな職場でいろんな人達をみてきたが、仕事のできる人は個性様々だが仕事のできない人というのはよく似た人が多い。性格的には気難しい癖に根が単純という、プロファイリングしやすく「解かりやすい人」という傾向がある。だいたい「仕事のできない人」と烙印を押されるのは若手ではなくベテランの域に達した年齢層である。若手なら「仕事のできない人」といわれる前に「未熟者」で片付けられてしまう。「未熟」ならこれから仕事を覚え「熟す」こともあるだろうが、その機会がないまま歳だけ重ねた人は「出来損ない」となる。「出来損ない」はキャリアだけでいえばベテランの域に達しているので自尊心だけは高く持っている。それゆえに自分よりもキャリアの短い相手に超えられるのを酷く嫌い、それがわかる周辺の人はその人に対し余計に気遣いが必要となる。そもそも「仕事のできない人」というのはミスが多いから「仕事のできない人」なのであるが、多くの「仕事のできない人」はそのミスを認めようとはしない。たいていは人の所為にして心の均衡を保とうとする。だからトラブルがあった場合、仕事のできる人とできない人の差が顕著にあわられる。仕事のできる人は「今そこにある危機」を脱するためにリカバリに全力を注ぐのだが、仕事のできない人は「自分の所為ではないという言い訳」に終止する。何事もなく順調に進んでいるときは自分の働きを誇示するが、いざトラブルが発覚したときはこれまで挙がってもいなかった人の名前を平気で出しきたりする。それはおおかたの社会通念からはほど遠い卑怯ぶりであるが、「仕事のできない人」の防衛本能は周囲の冷笑すらもどこ吹く風である。「仕事のできない人」は例外なく狭量である。自分のミスは言い訳がましく、その場でだけ最後には人の所為にするが、公の場ではそれをしようとはしない。なぜなら本当に責任追及が始まれば自分のところに来ることがわかっているからである。「ここは人の所為にしておいてさっさと無かったことにしよう」という魂胆がまる見えである。しかし本当に人の責任であった場合は驚くほど事を荒立たせたがる。日頃の劣等感を人の足を引っ張ることで相殺しようというのである。その性分は普段からも発揮され、「仕事のできない人」の言動には「人の揚げ足をとる」ことや「誰かのイメージダウンに繋がること」が多い。自分自身が向上できないぶん、人を引き摺り落とそうとするのである。「仕事のできない人」は例外なく無責任である。説明するまでもないことだが、自分のミスまでも人の所為にし、人の働きを自分の功績のように考える人間に責任感などという言葉は通じない。「仕事のできない人」は愚痴やボヤキが多いのも特徴のひとつである。「仕事のできない人」は自分のミスまでも人の所為にしているが、周囲はやはり「仕事のできない人」の所為だと思っている。しかし「仕事のできない人」の中では「人の所為なのに自分の所為にされた」という被害者意識を持つことになる。「仕事のできない人」は人の働きも自分の功績のように考えているが、周囲はやはり「仕事のできない人」は関係ないと思っている。しかし「仕事のできない人」の中では「自分の功績は認められていない」という被害者意識を持つことになる。肥大した自意識の中だけで当てはまる方程式「自分の能力>他人の能力」は現実の評価「自分の能力<他人の能力」と対極にある。現実の評価である「仕事ができない」のコンプレックスの吐け口は、自分の中にある自分像「自分>他人」を言霊にして放つしかない。結局のところこれを諭したり反論してこないであろう相手を聞き役にし、受け止めてもらうしかないのである。「未熟者」は「仕事のできる人」を見習うのは当然だが、「仕事のできない人」を反面教師にした方が「使える人材」になる早道になるのではと考えるしだいである。