『奇偶』を読んでいたとこのこと。
奇偶これまた思いだしついでに『奇偶』についても書いておこう。ジャンルで言えば「アンチミステリー」にあたる。しかし「アンチミステリー」と云われてもピンと来ない。それだけ狙って書く作家は少ないということと、それを書くにはミステリーを知らなければいけないからだろう。ま、早い話が文字どおりのミステリーの否定。ストーリー的には謎を(ミステリー)出してそれを否定するというパターン。過去に読んだ作品では『翼ある闇』や読みかけで図書館に返してしまった『匣の中の失楽』なんていうのがある。翼ある闇匣の中の失楽原作は読んでないがNHKで放送されたドラマは観たアンチミステリの傑作『虚無への供物』虚無への供物(上)新装版虚無への供物(下)新装版今は亡き桂枝雀師匠が映画で主演した『ドグラマグラ』というのもある。ドグラ・マグラこの映画、これがなかなか幻想的な撮り方が鼻につくようなスベリ方をせずにしっくり出来上がっていた。監督の腕というよりも役者が巧かったというのもあるのだろうが。原作は読んでいないので割愛する。そういえば京極夏彦の一連の作品もアンチミステリーといってもいいだろうか。ま、作品の紹介はこれで置いといて、書きたかったのはここからである。『奇偶』を読みはじめる前、僕はちょっとしたゲームを思いついた。ゲームといってもボードゲームで、僕はいつしかオセロやドミノやバックギャモンのような、作者不詳で十分だから人類が生き続ける限り遊び継がれるようなゲームを生み出して死ぬのが夢なのだ。僕はさっそくダンボール箱を解体し、厚紙にカレンダーを破いて貼りつけ、白いボードを作った。そこに油性マジックで必要なマスを書いて、駒も作った。(読音が似てるからといって妙な読み方は止めていただきたい)そしてサイコロが二個が以上必要になるので、その週末に100円ショップで買い求めて来た。作った作品は思ったよりつまらなかったが、サイコロ四つだけは手元に残り、どういうわけか暇さえあれば転がす習慣がついていた。そして『奇偶』を読みはじめる。重要なアイテムとして賽子が出てくる奇遇を感じた。そして一昨年の元日を迎えた日。今年の運勢を占えとばかりに四つのサイコロを転がしてみた。出た目は全てが2。チンチロリンのように3個の賽子でもゾロ目はそうそう出るものではない。それは四つのサイコロでゾロ目である。しかも出た数字は2。2という数字には何の意味もない。あるとすれば自ら後に付ける理由ぐらいである。しかしその時は思った。赤い色の1が四つならどう感じていただろうかと。きっと縁起の良さを感じていたに違いない。6ならば出目の大きさに喜んでいたに違いない。5ならばチンチロリンで言えば二倍役である。4ならば四つのサイコロでの揃いかたに気持ちよさを感じただろう。3ならば2でなかったことで悪運の良さに胸を撫でおろしていたと思う。何故によりにもよって2なのだろう。あるとすれば自ら後に付ける理由ぐらいである。『奇偶』とは、そういうものなのだ。気がつけば、あれから1年が過ぎていた。運が良かったのか悪かったのかさえわからない。しかし僕は今年も無事に生きている。『奇偶』とは、そういうものなのだろう。