2008/07/08(火)21:18
それぞれの山頂物語 続き
それぞれの山頂物語
抜粋
≪遺体とオートバイに乗りに行くことを許可した病院や警察にも、私は敬意を払いたい。遺体はどこの国でも自家用車に載せてはいけないはずだ。もっとも私はデンマークの規則を知っているわけではないのだが。規則は規則。しかしそれに優るのが人間の優しさである。日本人は規則、習慣、申し合わせ、などに抵触しさえしなければそれでいいとする人が多くてびっくりすることがある。それが果たして正しいことか、人道的なことかなどは、ほとんど考えないのである。
規則を盾に取ることは、勇気のなさを示していることも多い。正しいと思うことをして裁かれたら、それはその時のことだ。信念を持ってそうしたことなら、その人はほとんど傷つかないどころか心の安らぎを得るだろう。親孝行はあとあとまで続く楽しい思い出になり、親を放っておくと生涯自信を失うもののようである。≫
≪通俗的な悪意のある見方はおもしろい。つまり運命は、要らない人に金を贈る皮肉が好きなのだ。それはもっと彼の心を虚しくさせるためである。そこから立ち直るか、金や運命の毒に全身をやられるかは、その人の選択肢である。≫
≪『立ち直るか、毒に全身をやられるかはその人の選択肢』とは、厳しくそして鮮やかな言い回しだ。
神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というマタイによる福音書・・・
その人が幸運を掴んだからと言って、必ずしもその人が善人だとか、正しい人だとかいうことはない。因果関係は少しはあるかもしれないが、完全に作動してはいない。反対にその人が悪運に見舞われたからと言っても、その人が罰を受けているわけではないのだ。
現世で正確に因果応報にあったら、それは自動販売機と同じである。いい事をした分だけいい結果を受けるのだったら、商行為と同じことだ。≫
因果応報は自動販売機だったのだ。・・・とかく「ああ、あの時のことが今、・・・しっぺ返しか?」と悔やむ場面は多々あるが、そんなに単純な罰を神は与えたりはしない・・・のだろう。
今月も曽野綾子さんの書かれた文章を読んで、別の、異なる角度から自分を見つめることができつつある。
変わるのは、世の中ではなく、自分だ。