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未知との遭遇

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2006年04月27日
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カテゴリ:ひとりごと
昨日の日記で、『私は一人っ子』 と書いたので、今日はその辺のことを書いてみようと思う^_^;


私には、2歳年下の弟がいた。
父親にそっくりな、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちだった。
過去形にしているということは、亡くなったということ。


弟は、赤ちゃんの頃から何となく身体が軟弱で、母親が言うには、お腹の中にいた頃から
動きも鈍く(胎動が弱く)、産まれてからも布団を蹴飛ばすこともせず、静かだったとのこと。

歩くのも遅かったようで、私が物心ついてから記憶しているだけでも、
風邪を引いて寝込んでいたり、歩きっぷりが悪かったり、走ることが出来ずにいたり、
歩いていてもすぐつまづいて転んだり、そんなことがしょっちゅうあった。

弟が幼稚園の頃だったと思う。
両親と弟の3人が、遠くの病院へ行った。
私が学校から帰ると、少しして3人が帰ってきた。
両親は、無理に作ったような笑い顔をしていた。

幼いながらも、両親にとって「良いこと」ではないことがあったのだと、微妙に感じた。

それから弟は、欲しがる玩具をいろいろ買ってもらっていた。

うらやましがる私に、母は
「ごめんね、まーちゃん(弟)は、足が弱くてみんなと一緒遊べないから」
と、言った。


この病院で、弟は『進行性筋ジストロフィー症』と診断された。
この病気は、筋肉がだんだん弱くなっていき、20歳までは生きられない病気だとのこと。
今でこそ、進行を遅らせることはできるようになったらしいが、
この時は、ただ死を待つだけの難病だった。

遺伝が関係しているらしい。
聞けば、母の従兄弟で、兄弟でたぶん同じ病気の人がいたようだった。
母の兄弟の子供には同じ病気の子はいない。
どうして我が家だけ?とすごく不公平に思ったものだった。

母は、この病気を遺伝させる遺伝子を持った『保因者』。
その保因者から生まれる男の子の半分に遺伝する。
女には大きな症状が出ないそうで、実際保因者である母も、
多少の足腰の弱さはあったけど、普通に生活できる。


小学校へ入学した弟は、私と一緒に登校した。
昔は、身体の不自由な人や障害のある人には、偏見的な世の中だったような気がする。
これはいまでも根強くて、日本人独特な考え方なのかもしれない。

弟はよくいじめられた。
私は泣いて弟をかばった。
階段も、手を突いて這うようにしないと上れない。
私の同級生の男子は、弟の真似をして這って階段を上って冷やかした。

登校のときも、歩くのが遅く、私達はいつも遅刻した。
時には、弟をおんぶして走っていったこともあった。
ランドセルはどうしてたのかなぁ?今思うと疑問だけど・・・雫

そのうち、見かねた母が、自転車の後ろに弟を乗せて行ってくれた。


弟が3年生の夏休み。
高熱を出し、しばらく寝込んだ。
そのあと、筋肉が徐々に衰えていき、夏休み中には歩行が出来なくなっていた。
当時は、身体の不自由な子を見てくれる施設や養護学校がほとんどなくて、
そういう子は在宅で、定年退職したような先生が来て、勉強を教えてくれていた。
この先生がなかなか厳しくて、身体をバシバシ叩く。
けっして体罰ではないのだけど、「がんばれ」の意味があったらしい・・・(ーー;)

弟はだんだんこの先生を嫌がるようになった。
母は、先生に
「この子はこういう病気で、長く生きられない。どうか楽しく勉強を教えてやって欲しい」
とお願いしていた。
私は、この話を隣の部屋で聞いてしまい、弟の病気の本当のことを知ることになった。


その後、だんだんと身体の筋肉が衰えていき、背中が湾曲し、手が上がらなくなり、
曲げた足はまっすぐ伸ばせなくなっていった。
トイレにも行けない。
オシッコは尿瓶でする。大便はポータブルトイレを使いやすく改良してもらったものを使用。
両親は、福祉事務所や社会福祉協議会でいろんな話を聞き、
少しでも、弟に居心地の良い環境を提供したいと頑張っていた。
「手をつなぐ親の会」とか「ひまわり会」とか、いろんな会の催しに私も一緒にいったことがある。
いろんな子を見ていて、贔屓目ではなくどうみても弟は、障害があるような顔には見えない。
ソース顔で、ハンサムで可愛かった。
父親は、「こんないい顔してるのに、なんで身体は弱いのかなぁ」とぼやいていた。


弟は、中学3年生(15歳)の年の夏、呼吸困難になり、天国へ旅立った。
変わらない可愛い顔で、眠っているようだった。
私が高2の時だった。
お葬式には、私のクラスの仲良しの子5人が授業を抜け出してきてくれた。

「先生にはバレてるけど、大丈夫だからね」と泣いて笑った5人の顔が忘れられない。



苦労した両親、関わってきた福祉の関係。
辛いながらも、いろんなことから開放されていった。


私は、結婚して生まれた自分の子供が、弟と同じ病気だったらどうしよう、
とそればかりを気にしていた。
一人目は女の子だったから良かったけど、男の子だったら遺伝する可能性があるかもしれない。
そう思って、出産した病院で、県内の大きな病院の遺伝染色体科に紹介状を書いてもらって、
受診したことがあった。
結果は、100%ではないが大丈夫だとのこと。
ホッとした。
これで安心して男の子だって産めちゃう♪


そう思っていたのに、全く違う障害と出くわした・・・
私の人生、ツイてないかも・・・?


母も、3年半前に亡くなった。
最後のお別れの時は、母に「ご苦労様」と心の中で声を掛けた。
かえでは、一番世話になったおばあちゃんの死も、理解できているのかどうかわからないけど。


私も、私の父も、時々、弟とかえでがダブる時がある。

かえでに向かって「まーちゃん!」と呼んでしまう時がある。



本当はもう『福祉』だの『手をつなぐ親の会』だの、
そういうこととは関わりたくなかった。
『死』に繋がるイメージしかなかったから。
だから、かえでに障害があって、親子教室に通うときはすごく抵抗があった。

でもこういうことも、宿命だと思って乗り越えていくしかない・・・










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最終更新日  2006年04月27日 15時17分58秒
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