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お江戸の暮らしはエコ(江戸)な暮らし

お江戸の暮らしはエコ(江戸)な暮らし

ないわけ 1

テレビを見ない理由(わけ)

 テレビは見なくていい。いまどきの日本には情報源は他にいくらでもある。テレビに割いていた時間でいろんなことができる。疲れているときは静かに眠る。本を読む。掃除をする。料理をつくる。暇つぶしにテレビを見る時間があったら他のことをしたほうが、どんなことでもはるかに想像的だ。

 テレビをつけるとずっとつけっぱなしになる。コマーシャルがおもしろい。下手な番組でもついつまらないといいながら見てしまう。連続ドラマは毎回見る。人気俳優のドラマの時間にあわせて、生活するようになる。視聴者参加番組に出てみたい。慢性テレビ中毒症のあらわれか。

 1965年9月の「暮らしの手帖81号」に、~テレビの放送時間を短かくしよう 慢性テレビ中毒症から私たちの暮らしを守るために~という記事が載っている。(暮らしの手帖 300号記念特別号 美しい暮らしの手帖より)ようやくテレビが一般に普及したころのこの記事に驚く。

 年老いた両親が、手持ち無沙汰にテレビをつける。そうして五分もしないうちにこっくりこっくりし始める。彼らにとってテレビは眠りを誘う子守唄にはなっても、それ以上の役にはたたない。

 現場主義という。その場に行って五官を働かせる。目、耳、鼻、舌、手触りすべて使わなければ本当のことはわからないと。中坊公平さん、緒方貞子さん、レイチェル・カーソン、みんな同じことを言っている。最も現場からはなれてしまうのが、テレビを見てすべてをわかった気になることだ。

 うそではない、けれどすべてではない。それをよくよく理解した上で見ないと、本当のことからどんどん遠ざかる。でも、なぜか見るということは他の器官より優っていると思うものなのか、百聞は一見にしかずのごとく、小さな画面に映る小さな一部分を見て、すべて理解したかのように錯覚する。

 白熊が氷の上で遊んでいる。なにやらこっけいにすら見えるそのしぐさに単純な私はそう思った。でも本当は氷が割れないかどうか慎重に前足で探っているのだ。美しい映像、でもその美しさ以外に一面真っ白な世界の寒さ、生きている物たちの現実の厳しさはこの画からは想像もできない。映像の限界を感じる。

 水族館、動物園も似ている。動物に触ることもなく、ただ見るだけ。それでも無理やり動物たちを狭い人口の世界に閉じ込める意味があるだろうか。それこそテレビで見ればいい。ストレスを抱えた動物を、やはりストレスを抱えた人間が見にいく。悲壮感さえただよう。

 「バーチャルリアリティ:仮想現実感、映像や音声によるリアルな疑似体験」、 三省堂 『デイリーコンサイス国語辞典』はこう説明する。体験できることはわざわざ疑似体験しなくても、実際に体験すればいい。現代日本は多くのことが体験できるいい世の中になった。けれど現実の世界より仮想の世界が好きな人が多い。仮想が仮想であると判断できるうちはそれでもいいが、どれが仮想でどれが現実かわからなくなったら怖い。

 物心ついたときからテレビがあった。聞いたこともない遠い国のことを、家にいながら知ることができる。テレビは楽でいい。しかし楽な分だけ楽しみも少ない。感動も少ない。嫌なことも少ない。

 テレビを見ることがつまらなくなった。「享受する楽しみ」ばかりではなにも生まれない。

追記
 薄型テレビの売り上げが伸びている。「新三種の神器」だとか。ハードはどんどん進化していくけれど、見たい番組、ソフトはあるのだろうか。今年はオリンピックがあり、そのせいもあって売り上げが好調のようだ。しかしただ競技を中継するだけというのはありえないだろう。そういう番組なら見てみたいと思うけれど、たぶん日本では当分ない。競技に詳しくない人が番組進行役をしていて、見ていて疎ましく感じることがよくある。日本であまり人気のない競技は中継されない、日本で知名度のある選手の映像ばかりが何度もしつこく流れるなど、偏りは当たり前に存在する。
 誰のために番組を制作しているのか疑いたくなる。テレビ局は何社もあるんだから、せめて違う競技を中継するとかできないんだろうか。やろうと思ったら出来ないことはないはず。ただやる気がないだけ、やりたくないだけ。こんな状況でも喜んでいる人もきっといるんだろう。けれどいらいらすることのほうが多いのが今までのスポーツ中継だ。結局見ない、ということで話が終わる。
 薄型テレビを買うお金、テレビが消費する電気代、これで何かわくわくぞくぞくするような、面白いことをしよう。自分で身体を動かすスポーツにチャレンジしよう。



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