全て
| カテゴリ未分類
| 日常
| 食べ物
| お出かけ
| お買い物
| 器
| さぼっています
| 旅行けば
| のりもの
| Check を Check
| 秘密結社バウルー
| 本日のスープ
| スーパー調査隊がゆく
| こだわりるれろ
| コーヒーをめぐる旅
| はちみつをめぐる旅
| 地下鉄をめぐる旅
カテゴリ:カテゴリ未分類
年末年始に神戸に帰省した際、夫の両親と妹一家(5人)そして私達で淡路島に一泊して遊んできました。
その際、お義父さんが「お前達はまだ見たことがなかっただろう~」と連れて行ってくれたのが 阪神淡路大震災(以下阪神大震災)で突如出現した断層を保存してある施設。 見事なまでに保存してあります。 こんなに隆起したのですね。 こちらは当時の生垣ですが、横から見るとずれてしまっているのがわかりますか。 この施設は地震から3年後の1998年に建てられたもの。 施設内には当時の生々しい記録が残されており、災害は対岸の火事とばかりにしか考えていない平和ボケした人間(つまりは私だ)の目を覚ますためにお義父さんは大変いい機会を私に与えて下さったのでした。 以下は大変簡略化した図ですが、 (バナナは日本列島の位置を表しています。時間がなくて日本列島を作成できなかったのでこのような形になりましたので御了承下さい) 日本列島は4つものプレート上にあり、簡単にいうとこれらのプレート動くことによって地震が発生するわけですね(あまりにも簡単に言い過ぎですが)。 だからこの国で生活している以上、地震を避けることなど不可能なのです。 *** 今から13年前の1995年1月17日。 当時勤務地が横浜、居住地が東京都大田区で生活を送っていた夫(当時独身)は目が覚めていつものようにテレビをつけたところ、最初は火事のニュースかと思ったのだそうです。 そしてそれが地震によるものだとわかり、 その地震が震度6もの地震であるということもわかり、 しかもその地震が夫の実家のある神戸で起ったことに驚き、 すぐに家に電話をしたのだが一向に繋がらないのでとりあえず出勤したのだとか。 現在本社は移転してしまいましたが、もともとナニワの会社だったのでその日はほとんど仕事にならなかったらしく、テレビも点けっぱなしにしてことの成り行きを見守るしかなかったそうです。 被害はだんだんと大きくなっていき、 阪神高速道路の橋脚が倒壊したニュースも飛び込んできました。 夫の実家はその場所から一キロ以内のところにあるので滅多なことでは動じない夫もさすがにこの時は肝を冷やしたらしい。 昼頃になってようやく夫の母から会社に電話があり、両親・妹・弟の家族全員が無事であることを知りました。何度この話を聞いても淡々と語る夫ですが、地震が起こってから安否がわかるまでの間は胸がつぶれるような思いをしたに違いありません。 実家の被害状況ですが、簡単に云うと家は 平行四辺形に。 しかし家族は全員無傷という。 それから2日後の19日、鉄道も少しずつ復旧し始めたので夫は休みを取って(上司の配慮で特別休暇にしてくれたらしい)神戸まで出かけて行きました。 京都までは新幹線を使い、京都から大阪まではJR、そこから阪急電鉄で西宮まで行ったのですが、みんなリュックを背負い、ポリタンクをぶら下げ電車はすし詰め。経験したことはないが戦時中の買出しはこんな感じだったのだろうなと思ったのだとか。 そして西宮から実家まで瓦礫をまたぎつつ約10キロの道程を2時間半ほどかけて歩いて行ったのですが、途中道路の真中に家の2階部分が落っこちていたりと凄まじい光景が展開されていたそうです。 やっとたどり着いた我が家。 しかしそこでの光景を見て夫は拍子抜けしてしまったらしい。 庭にカセットコンロを出して焼きそばを焼いたり、まるでキャンプ。 母も「あ~、来たの~」ってな感じだったとか。 家は困ったことになったものの、全員が生きている。 この状況においてみんな元気で生きている。 そのことを考えると、みんなもう笑うしかなかったそうです。 お向かいの御主人は一階に寝ていて亡くなり、 近所の方は地震後2~3日は元気だったものの打ち所が悪かったらしく、その後亡くなったそうです。 夫の弟は一階に寝ていたものの、どういうわけか難を逃れました。 神戸に行く前に電話で妹と話をしたのだがその際 「お兄ちゃん、家見たらびびるでー」 と言われていたのだそうだが、それでも実際に目にした時はびびったらしい。 当時妹は結婚を控えており大阪に新居を用意してあったので、一家はストレスフルな避難所での生活を運よく免れたのでした。 この地震で夫の会社の同期の女性が亡くなったそうです。 会社はすでに辞めていましたが結婚を間近に控えていた矢先のことだったとか。 会社にはすでに情報が入っており夫は西宮市の体育館で彼女と対面したそうなのですが、痛ましいとはこのことで言葉がなかったそうです。そのことを考えると家の一軒や二軒なんか問題ではないと言います。 夫の両親はその後、もとの場所に家を建て替えて現在も二人でそこに住んでいます。 現在私の知っている神戸の街はすっきりとしたきれいな街ですが、住宅街のところどころにある草の生えた空き地が、そこへ戻ることができなかった人々の無念さを物語っているようです。 私は大きな地震を経験したことがありません。 なので、こういうことが起ってから初めてその恐ろしさを知るのですが、本当の怖さを経験していないので「喉もと過ぎれば・・・」で、いつの間にか気をつけなければいけないという意識を忘れてしまっているのです。 地震が来ると身の安全を守るよりも真っ先に食器棚の扉を押さえに走る私は まだまだ甘い。 私は夜になると当たり前のようにパジャマに着替えて眠りにつくのですが、 いつでも外に逃げ出すことができるような格好でなければ眠れないと、それができない人が現在も多数存在することを忘れてはなりません。 日本に住んでいる限り地震は決して防ぐことはできないけれど、 自分の心掛け次第で被害を最小限にとどめることができるということを常に心に留めておかねばいけないのでしょう。 以前テレビで、周りの家が倒壊する中、無事に残った家のことを取り上げていました。 古い家なのですが、外壁もこまめに塗り替えて、浴室も使う度に水気を拭き取ったりとずいぶん家を大切にされていた方でした。「家のメンテナンス=古くなってから」とばかり思い込んでいた私は目からウロコが落ちましたね。普段から大切にすることが後に自分を、家族をも救うことになるのかもしれません。 どんなに大きな事件・事故・災害があっても当事者ではないので、 ある程度の時間が経てばないとどうしても忘れて去られてしまうもの。 *** 年々小さくなって、今年などほとんど見当たらない震災の特別番組など探しながら 「今日くらい思い出さんでいつ思い出すのだ」 と私は思うのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.17 16:39:29
|