高貴寺と弘川寺今日はちかつ飛鳥(河内飛鳥)にある高貴寺とその隣にある磐船神社、そして6キロほど離れたところにある広川寺へ行ってきました。高貴寺は役行者が開き、空海が修行したといわれているお寺です。 かなり急な坂道を車で登りきり、高貴寺の入り口で車を止めました。 そして、「高貴寺」と書いてある→があったので、そちらの方へ歩いていきました。 そこからも、今まで以上にかなり急な山道です。 はあはあ言いながら登っていきました。 息が切れそうになって、足が重くて根をあげそうになったときやっとありました。 高貴寺の赤い門です。 門に釣鐘が入っています。 釣鐘をくぐって門を入り少し歩くと金堂が見えてきました。 講堂、庫裏などもあり、大変厳粛な雰囲気に包まれています。 樹齢100年を越える枝垂れ桜がたくさんあります。 春に来るきっと美しいのだろうななんて考えながら歩いていきました。 高貴寺はかなり山深いところです。 標高もかなりあります。 このようなところで、役行者や空海が修行したのかと思うとなるほどとうなずけます。 高貴寺の隣(歩いて7分)に磐船神社があります。 行ってみることにしました。 うっそうとした山道を入って行くと鳥居が見えてきました。 鳥居をくぐると神社がありました。 山全体を御神体とする古社です。 明治時代の神仏分離で高貴寺から分かれたらしいのです。 周辺は野鳥が多く見られるほか、眺望も素晴らしいものがありました。 次は磐船神社を出て、ここから6キロほど當麻町よりの弘川寺へ行くことにしました。 弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来。西行終焉の地としてその名を知られたいます。 弘川寺も高貴寺に負けないくらい桜の綺麗なお寺だそうです。 次回は是非桜の咲く時期に来たいものです。 本堂を見下ろす場所に西行堂がありました。 西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立されたそうです。 晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのでしょうね。 西行は29歳で陸奥へ旅立ち、その後高野山に入り30年ほどを高野山で過ごし、この間に京都、吉野、四国などに足を向け、多くの歌を残しています。 また、西行は63歳のときに高野山から伊勢に移り1186年、西行は東大寺再建の勧進のため、再び陸奥に旅立ちました。 そして、1189年陸奥の旅から帰った西行はここ弘川寺に入りました。 願わくは 花のしたにて春死なむ その如月の望月のころ 翌年、西行は自ら詠んだ歌の通り、この地で73歳の生涯を閉じました。 文治6年(1190)2月16日(旧暦)。 奇しくも釈迦が入滅し、空海が入定した同じ日だったそうです。 如月の望月のころ…とは…、研究されていて新暦の3月29日にあたるそうです。 もちろんその日は、ここ弘川寺の桜も満開であったのでしょうね。 ジャンル別一覧
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