お休みのお知らせ
4月10日から25日までお休みします。大変ご迷惑をおかけします、なにとぞご勘弁願います。以下facebookにのせたもの。 昔、南の島で漁師をしている頃。浜でボーとしていると、小さな小枝がぷかぷかと流れ着いてくる。村の古老にどうしてと聞くと・・。渡り鳥は何千キロも旅をして海を渡る。クチバシに小枝をくわえて渡るのだそうだ。どうしても疲れた時、その小枝を海に落として、その枝にとまって休む。そして、またクチバシにくわえて旅をする。浜に流れ着く小枝は、力尽き海を渡れ無かった鳥が運んでいたのもの。ということだった。切なさは大事ですね。日常のせわしない世界から、非日常の世界への扉を開きます。生き物の、生き死にを感じることで、ほど(適度・寛容)を知り、人は人間になっていくんですね。それは悲しい墓標ではないんですね。悲しさ・楽しさ、喜びんなん、人生。マリオ書きました。ツバメは凄いぞ!昨日今年初めてツバメを見た。高く飛んでる。多分もっと北に行く途中なんだろう。千キロ2千キロ普通に飛んでいく。多分疲れる。しかし弁当持たずに、カバンも持たずに飛んでいく。今日は幼稚園の入園式もあった。園児も入園すると朝ちゃんと起きなくちゃいけないし、あれこれ言われ、列作ったり、みんなでいしょに何かしなければいけない。これもまた大変だ。そこで恵子さんに聞いた、どっちがいいか?園児とツバメと。んんん・・。やっぱ園児かなぁ・。ツバメは飛ぶように設定されてるから・・。そこで僕は言った。たぶん森山さんは笑って何も答えないだろうと。無理に聞くと答えはたぶんこうだろう、何故なら、そんなことありえないから。恵子さん笑った。人の命は生まれた時から引き算、だんだん命が減っていく。しかし、人としての喜びは足し算。感動する気持ちや慈しみの気持ち。幸せを学んでいく。最初から人はやさしいのじゃない。学んでいく、その方が幸せだから。そういう関係であってほしい。学校や社会がそうであったなら、会社も国家もやさしいはずだ。 仏の慈悲と人間の慈悲では分けて考えます。人間には愛ですね。ですから、常に、どう考え昇華し、修行しても、自己愛から離れません。それと相対するのが神や仏の慈悲です。人の愛が悲しみを産婿とも絶望をうむことも、老病死から逃れなない事を、もがき苦しむことを、知って救いの手を差し伸べている事知る事・感じることが、仏教やキリストのの教えだと思います。共に嘆き苦しんでくれる存在です。決してエゴは捨てられません。人間はそのもがきの中にいるのです。それを知る事が仏智そのものです。まあ・・ストレスですね。 これも勉強会で教えてもらった、知識だけどね。知ったかぶりの、知ったかブッタ!でも、ある出来事が自分に起きて、確信しています。15年ほど以前、僕はキリスト教における、贖罪はないといっていました。その時、ある友人の長老格の人が、いやあると言っていました。しかし今、僕は先に書いた意味で、贖罪はあるといいい。その人は、ヤッパリ贖罪はない、と言っています。面白いですね。扉が開いて、分ったと思った瞬間から。既に扉の外に立っている。何時までも、同じところ。それでいいと思えるのですが・・。それ以上はないんです。人間ですから。 僕は<ささやかな・ひっそりした暮らし>とか<みんなが団結>そういう考えは嫌いだ。日常の何気ない、ほんの些細な行動にも、民の意思が現れ、少しづつ社会が変わっていく。大晦日にお寺に行ってお参りし、初詣に行って小銭を投げる。お葬式をしたり町内会で村の神社を維持する。何が問題なのか?王や伝統・文化を利用してお金を稼ごうとする集団は右翼ではない。夫婦・家族や国家・文化に愛を訴える新宗教に、あなたはどう反論するのか?同意するのか。未来は突然の独裁者によって決まるのではない。小さな善意と愛によって生まれる。 教育実習をして、指導教諭にきつく注意されたこと。僕が生徒に向かって<わかりましたか?わかりましたね!>と強く言った事。反省を求められた。でもふつうに教師は言っている<わかりましたね>。理解を強要している。聞くだけなら良し。それが実習生にできるかどうか別にして、普通の教諭にできてるとは思わないけど正解。繰り返し暗記させることはどうなのか。高校の古典の教諭はまず分法を暗記させて進んでいった。知らないから暗記するしかない。考え方や教育勅語を暗記させるのはどうなのか。思想を暗記させるのは洗脳としては正解だけど、民主主義の教育としてはダメ。考えることをなくすわけだから。恐育実習(?)で学んだこと、もう一つ。生徒に近づきすぎない。若干、人の問題だから正解はないけど、相手がそう思ったり感じてないのに入り込むのは間違い。金八先生は昔の、強い関係を求める社会でのこと。教育は一人で生きていける力をつける事。そんなこと考えてました。お誕生日メールの返信からでした。なんかおかしいのかな・・・。 高校卒業、めでたくもなし。考える。お金がない、大学行くかどうか?大丈夫、お金が十分なくても大学に行ける。ふうつは年間100万円ほどかかる、国公立も60万ほどかかる(入学金30万もいる)。違う!そんなに高く払わなくても大学に行ける。大学には昼間と夜と通信制と、インターネット大学がある。因みに東洋大学は昼は入学金・授業料25・70万。イブニングコース、18・43万。通信、2.40万。バイトの時間の取り方によれば比較的楽に卒業できる。(文系です)ネットはさらに安い。国公立大学は怠けている。イブニングコースが無い。奨学金もあるけど高校のペーパーテストができた子だけ、優遇するのは怠慢だ。教育者として怠慢だ。金のない学生の皆さん、どうぞ胸を張って、<貧乏でも学校に入れさせろ>と叫んでください。あきらめる必要はないんです、勉強する気があるのなら・・。 大学を卒業、めでたくもありめでたくもなし。どうする?希望の就職できなくて・・。大丈夫だよ。誠実に生きてりゃなんとでもなる。普通というのが無いんだな~~人生は。みんないい学校へ行こうとして、みんないい会社や組織に就職しようとする。同じように結婚し、同じように幸せになろうとする。同じはないんだな==、。日本の学校は同じ服装で同じことができるように教育する。無理だ・・。実社会は違う。たとえば貯金。同じようにスマホ代払って、同じようなアパートに住んで、外食飲み食いする。貯金が出来るわけない。企業が価格を設定するのは、普通の人か消費できるぎりぎり高い価格を狙って、よりたくさんの消費をあおり販売するわけだから。それにつられていたら預金はできない(宣伝・広告の商品の事)。みんなと同じって発想は、自分もそうでなかったらみじめって事で、悲しく感じる。しかし、それに合わせたらいくら稼いでも貯金はできない。まともに就職できなかった皆さんに僕は言いたい。みんなと違ったスタートは、それだけで、自分の人生がやっとできるって事だ。僕がそうだからね。みんなと同じと普通の暮らしはないんです。