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グルメは怖い カンボジア編 その1 10年以上前、僕はカンボジアのトゥールスレン収容所にいた。別名,S21虐殺収容所。ここでポルポト時代2万人が殺された。そして死体があふれるとキリング・フィールドに埋められた。そこには頭蓋骨が集められた塔が建っていた。当時カンボジア全土で200万人が殺された。人口の30%。カンボジア人は穏やかでおとなしく、戦闘的ではない。従順な人達だった。なのになぜ?僕は答えを求めに行った。 この事件は現在も裁判が行われ、時々小さく報道される。今まで言われている事は指導者は虐殺を指示していない。看守は指導者を恐れそれをおこなった。スパイを聞かれた囚人達は拷問を恐れ、知っている人の名・友人や家族の名前を言った。そしてみんな殺された。まさに地獄、国民同士が、友人・家族が殺しあった。 <従順とアウンの呼吸(集団依存型の)>これが殺し合いの一番の答え。国家体制・思想や指導者の資質の問題はその次。日本ではこのような事件は起きないと思ってるかもしれないけど、民族性は結構近い。で、身近な問題で考える。 それを、いじめとも言う。中学生頃は親と言う家族集団から離れ、自分の群れ・集団を作り、さらに大きな社会と言う集団を学ぶ時期。この集団から離れては生きていけないと強く思えば思うほど、その集団は強く・強制力が働く。 15・16歳頃は自我の目覚め、自分の行動を試す時、バラバラになる時。中学校の管理者は必死でまとめ縛ろうとする。いじめの原因はここにある。カウンセリングは教育者に必要だと思うけど、、。 挨拶ができる子が良い子で、出来ない子は悪い子。校則が守れる・服装がちゃんとしている子が良い子で、だらしない子は不良。これが現在の多くの教育者の基準。集団への強制の基準は社会と同じでなくてはならない(とりあえず、日本社会が不自由でも)。 最近ようやく問題になってきた体罰問題。これは一般社会でおこなえば、単なる暴行・傷害事件。なぜ今まで続くのかと言うと、それは閉鎖された強い関係の集団であるから。その力が弱まってきたので、表ざたになってきた。強い関係の社会にはまだまだ隠れた体罰はある。DVもしかり。 PTA・町内会も会社の組合・互助会も自由参加のはず、しかし逃げられない、今の日本人の多くは参加したくなくても断れない。そして自分もいやで抜けたいのにそう言えない人達が、より過激に<あの人達自分勝手・許さない>と叫ぶ。強制で無いのに強制になってしまう社会。 今まで書いた例は平和・戦争とは関係ないようで大有り。平和・平和と叫ぶ強い集団も闘争を起こす。思想ではない。究極は相手の主張に傍観できるかどうかの問題。主張は最後まで同じになることは無い。昔の人間のメンタリティーが今と同じなら、旧日本軍でおこなわれた事も想像できる。想像だけどね。一々都合の悪いことに、命令書を書くわけが無い。アウンの呼吸で処理された。そう思うのが今に繋がる日本社会の風習なのだから。また、日本の外交が苦手なのは当然。個の自立の無い政治家による、日本と言う強い集団に依存するだけの政策。その象徴が天皇・靖国。彼らは日本以外では生きてはいけない。 国家は、日本もいずれ滅びる、それが歴史だ、。日本人としての僕は、世界の人と同じように日本人が生き残れば良い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年08月24日 01時01分48秒
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