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Let's confirm whether you catch cold if you are hot.
船頭多くして、船山に登る。
ハードルは高ければ高いほどくぐりやすい。
真実はいっぱい、おっぱいは2杯。
星の数ほど女はいるが、星には手が届かない。
カロリーは高いほどおいしい。きれいかわいいほど女は危ない。
やる気のあるやつは視野が狭い。正義は強いほど視野が狭い。
昔に帰りたい人は、たとえ帰っても、その昔に返りたい。
四葉のクローバーを見つけるために、三つ葉のクローバーを踏みに?じってはいけない。幸せはそんな風に探すものではない。

* ホームレスの方・旅行中でキャンプをしたい方、軒先での寝袋利用や、裏の駐車場でテント張ってもいいです。必ず声をおかけください。

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2013年11月29日
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正覚寺住職 石川 信暁
 
真実の世界から現れて来るもの
 
今月の法語は、﹃不安に立つ﹄という御著書もある、安田理深師の言葉です。
私たちは日々の暮らしの中で「不安」を感ずると、何とかそれを無くそうと努めます。何故なら、「不安」というものはあってはならないネガティブなものだと思っているからです。「不安」の無い「明るく朗らかな日々」こそ「幸せ」だと思っているのです。しかし、本質的な「不安」は、どうやっても無くせません。そのため私たちは勢い「不安」を掻︵か︶き消すために、より刺激的な「享楽︵きょうらく︶」を求めて彷徨︵さまよ︶い始めることになりがちです。
それに対して安田理深師は、「不安が如来なのだ」と仰るのです。
「如来」とは「仏」「ほとけさま」と同義の言葉ですが、くわしく頂けば、「如」といわれる「真実そのものの世界」から、「この世」に「現れて来る」ということを意味しています。「如来如去」という言い方もあり、文字通り、「真実そのものの世界から現れて来て、真実を告げ知らせ、また真実そのものの世界に帰っていく」のが「如来さま」、つまり「仏さま」なのです。
 
南無阿弥陀仏の救い
 
「不安こそが如来」なのです。つまり、私たちを悩ませ苦しませる「不安」こそが、「私たちを真実に導いて下さる本当に尊いもの」だということです。
私たちが日々、生きている中で、「不安」を感じたり、「不全感」を抱いたりするのは、私たちの生き方に潜む「歪︵ゆが︶みや問題性」を、本来性を回復しようとしている深い「いのち」そのものが教えようとしているのだ、と安田理深師は仰るのです。
「生老病死」つまり「生まれた以上は、必ず老い病み死ぬ身」でありながら、「老いたくない病みたくない死にたくないという思い」を「自分」として生きている限り、「不安」は必然なのです。何故なら私たちの日々に起こってくることの全ては、そういう「自分」が決して認めたくない「老病死」の「徴候︵ちょうこう︶」に他ならないからです。
それらをそのままに受け取れる「自分」に成らない限り、つまり、そういう智慧︵ちえ︶をいただかない限り、私たちの「不安」は止まない道理なのです。
今月の法語を残された安田理深師は、また、「南無阿弥陀仏とは、思いに死んで事実に生きよ﹗との呼びかけのことだ」と言い切って下さった方でもあります。
「老いたくない病みたくない死にたくないという思い」の虚妄性︵きょもうせい︶に目覚めて、「生まれた以上は老い病み死んでいく身の事実」に随︵したが︶っていくことこそ伝統的に「南無阿弥陀仏」という言葉で表現され伝えられ続けてきた深い智慧︵ちえ︶なのです。この智慧をいただくことこそ「往生浄土︵おうじょうじょうど︶」、つまり「救い」なのです。
 
一人前の老人の仲間入り
 
私ごとなのですが、昭和三十年生まれの私も「還暦︵かんれき︶」が近づいてきて、いろいろな「老い」の徴候︵ちょうこう︶がハッキリと現れてきています。
父から「若禿︵わかはげ︶」の遺伝子を頂いてきた私の髪は風前の灯︵笑︶ですし、母から「もろい歯」を頂いてきた私の歯は、虫歯どころか歯周病︵ししゅうびょう︶・歯槽膿漏︵しそうのうろう︶の段階をとっくに過ぎて、いまや奥歯を全て失い、総入れ歯にせざるをえない直前まで来ています。
故戸松政憲師がお説教の中で繰り返し、「歳をとると下のパッキンが緩︵ゆる︶んでくる」と言っては皆を笑わせていましたが、このところの頻尿︵ひんにょう︶がついに行くところまで行って、一昨年の暮れにはついに「失禁︵しっきん︶」を経験しました。
お月参りの途中、尿意を覚えたのですが、そのお宅では先月もトイレを借りたばかりで何となく格好悪いと思って我慢して、帰宅するまで何とかなるだろうと思って運転していたのですが、庫裏の玄関に着いたとたんに堪︵こら︶えきれなくなり溢︵あふ︶れ出てしまったのでした︵爆︶。
何とも情けないことでしたが、「それにしても本当に戸松師の仰る通りやなぁ﹗」、と感心して思わず笑ってしまいました。その前後に電車に乗ったら、「よかったらお席をどうぞ」と若い娘さんに生まれて初めて席を譲られて、嬉しいような悲しいような、「俺も一人前の老人になってきたんやなぁ」と、改めて思ったことでした。それ以来、いつでもどこでも尿意を覚えたら遠慮なくトイレを借りることにしています。そういう折には皆さんよろしくお願いします︵笑︶。
 
1病息災
病には病の値打ち。身を横たえて知る空の高さ。
 
長年の生き方を変えられぬ我々
 
登山が趣味の私は、なかなか叶いませんが「年間二、三回は出掛けたいと願っている日本アルプスの縦走登山」に備えての体力づくりも兼ねて、遠望峰山や三ヶ根山や五井山や西尾の茶臼山などの地元の低山に、時間があると繰り返し出かけるのですが、同じ山に何回、何十回登っても、不思議とその都度その都度、新しい発見があって、とても楽しいのです。
先日、本宮山で奇妙な男性に出会いました。その方は自動車関係の会社を最近、定年で退職したが、「何か趣味を持たなくてはならぬ」と考えて、「中高年の登山ブームだと聞いたので、とりあえず自分も登山というものをしてみようと出かけてきた」と言うのですが、大きなリュックを背負い、ヘッドホーンで音楽を聴きながら、読書をしながら歩いているのです。
「せっかく山に来ているのに、そんなにいろんなことを同時にしていたら落ち着かないでしょうに」と言ったら、何と「いや、ただただ歩いているだけでは時間が実にもったいない。もっといろいろやらないと、どうにも間が持たない」と答えるのです。
その方は、きっとノルマに追い立てられての忙しい会社員生活を何十年と繰り返してきたので、そこで身についてしまった習い性が、なかなか抜けないのでしょう。せっかく山に登ってきていても、その方には、山の空気も感じられず、木々の緑も空の青さも見えていないのでしょう。
 
病の恩恵に感謝する生き方
 
その方と出会ったとき、私は今月の法語を思い出したのでした。私たちが「自分の生き方を振り返る」とか、ましてや「生き方を変える」ということは、いかに難しいか、ということです。
私の親友は、四十代の半ばで癌︵がん︶という病にかかり、それまでの生き方を根本から変えて、見事に甦︵よみがえ︶りました。
「これまでの自分の生き方は癌をもたらすようなストレスをため込むような歪︵ゆが︶んだ生き方だった。この生き方そのものを変えない限り、この癌を取り除いても、きっとまた別の癌を惹起︵じゃっき︶するだけだろう...」と深く反省した彼は、思い切ってそれまでの仕事を辞めて、温泉めぐりの楽しい日々を何年も過ごす中で、「免疫力︵めんえきりょく︶」を高めて、転移の徴候さえあった癌を見事に退縮︵たいしゅく︶させてしまったのでした。
「自分が死ぬか否か﹗」という危機的な病気になったからこそ、彼は、そこまでの大胆な決断が出来たのです。
先ほどの奇妙な登山者が示しているように、私たちは卒業とか定年退職とか転居とか離婚ぐらいでは、自分の生き方を、とうてい変えられない「頑固な生きもの」なのです。有無も言わさず「死」を突きつけて、私たちの生き方を根本から問い返してくる「病の恩恵︵おんけい︶」というものがある、と思われてならないのです。






最終更新日  2013年11月29日 20時24分55秒
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