Maryam's HP 日記

2012/02/06(月)11:49

殺伐さ と 白黒

私見(323)

私のことを 殺伐 としていると表現してくださった方がいる。 でもその 殺伐 は記事の上には現れていないそうだ。 私が撮ったある景色をみて、その方はそう感じたそうである。 それはもしかしたら、ご覧になられたこの方自身の心の反映であると私は思ったが、 私はそれを褒めてくださったと受けとった。(←勝手な奴です) グレーの世界なのだそうだ。 水墨画の世界みたいに色のない、ゴウゴウという音だけが聞こえるような感じがした。 と。 グレーの世界みたいなことは、モノクロだったかな? 他の方にも言われたことがあった。 私はこのお言葉に対して以下のようにお返事した。 私はもともとそういう感じの人間だとおもってる。 色でいうとグレーっていうのは 鋭いなあ と思った。 私は自分には 白と黒 が相応しい感じがしている。 その二つの色の混合の具合で出来る色が私のその時々の色って 気がしているの。 ただ、、それは もとの私が 赤 だからかもしれない。 赤を抑えるために 白と黒が必要だからと思っている部分もあるかも。 でも私は 赤 でありたいと思うけど、赤で長時間いられるほどの エネルギーが肉体的、現実的にないのよね。 これは、自分を色でたとえたら。。。と思って書いてみた。 そしたら もしかしたら、冬さうび の色のように、なまめかしい甘い赤かもしれないけれど。 とお答えがきてびっくりした。 私が 赤 と書いたのは 戦う 性質のことを思ったのだったけれど。。。 戦うために、どうしても必要なエネルギー のこと・・・ 私は、、、冬に咲く薔薇 冬さうび(冬そうび)が好きじゃない。 好きじゃないわけではないけど、ジッと見られないのだ。 このことは 冬さうび という詩に書いた 冬薔薇 ふゆさうび ふゆさうび の忍耐と潔さを愛する人もいる 私には彼女をジッとみつめられるだけの 心の強さがない 薔薇であって薔薇でない 華やかさと豊満さをほとんど失った 最低限の姿 それでも ああ・・・彼女は薔薇なのだ 芯の強さと健気さだけで その場に凛と咲き香る 私の胸には棘が突き刺さる 素(す)だけを残した美しさが 私の心を締め付ける 世にも気高い悲劇のヒロイン これは以下のような思いから、こんな詩を書いたのだった。 私はね雑草だから、冬は辛いよ。 でも美意識も、プライドもないからまだ 楽 なの。 でも 薔薇 がそんな状況で 咲き誇る って 咲き誇れないのに咲き誇るって考えただけで 痛みで目を閉じちゃう、これ以上見られない。 私は、冬に咲く薔薇にはなりたくない。 もしそうありなさいっていわれたら、、、 日陰でそういう姿してる。 人の目にさらされたくないの。 冬の薔薇は確かに目立つ。 冬に咲くだけで目立つのに、 しかも薔薇なんだもの! そこに視点が行く方が多いのかもしれないけど。。。。 でも、私の目には 冬さうび って、 ”腐っても鯛”なの。 どんな環境にあっても 薔薇 なんだよね。 薔薇は確かに鑑賞にはいいけど、自分との間には一線あるって感じがする。 憧れるけど、”なりたくない”のだ。 どんなにお願いされても・・・ 薔薇 という高級な花を鑑賞するんだったら、、、あんな姿は嫌なのだ。 鯛ではある、でも 腐ってる・・・ここまでの酷評はできないけど、でも、、、私が 冬さうび を高く評価できない理由はそこにあるように思う。 ううん、、、少し違うのかもしれない。 薔薇は美しいけど 私が求める美しさじゃない っていう意味だとおもう。 薔薇は好きだった。物心ついたときから、長いこと好きだった。 私は薔薇の季節に生まれたから! でもちょうど私がいろんな点でイランでの生活に疑問持ち始める頃 2008年から、薔薇を好き という気持ちが憑き物が落ちたようになくなった。 それよりね、野草がものすごい外からの過酷さをうけながら、 自分の色と力放って、咲いてる姿に目が覚めるようだった! それはね、冬 という過酷な状況だけど、他に比較する花がないんでめだつ  薔薇の美しさ とは全く逆のもの。 ものすごく強くて、眩しい、ギンギラギン!の日光を浴びて、 イランの乾燥しきった気候の中で、 そんな過酷な条件の中でも同じように咲いている別の野草も一杯のなかで、 それぞれが自分の個性を強烈に放って、 基礎にあるのはただ 生命力と、環境への順応と、自分の本能である種の保存、しかないの! そのために自分を主張する美しさなのよ。 私そういうものに 憧れる!  冬さうび の美しさ もわかるけど 心惹かれないの。 痛々しい が先にでちゃうの。 冬さうび には憧れない、なろうと思ってもなれないし、なりたくない・・・ 私はたぶん、生きること がものすごく好きであり、ものすごく嫌なんだと思う。 この二つの思いを中庸させようとすることとは、 私がいつも戦っている理由、になるんだと思う。。。。 美しい人生を歩みたい、幸せな人生が欲しい なんて思ったことない。 ただあるのは、どうしても歩まなければいけないんだったら、 自分に納得がいくものであったらいい。 自分の納得ということのなかには、周囲との協調が含まれるけどね。 それは多分 すご~~~~く我侭な私が 生きるという 他と、どのように共存するか? というお題であると思う。 そして、それはまたそんな私の弱い、情けない姿を 哀れだ、可哀想だ と見られないように そんな想いを抱かせないように 髪振り乱して、一心不乱に、刀がなかったら素手で構えて、戦い続ける 笑いにも通じる やせ我慢 の姿をなりふり構わず見せてまでも、 ”同情されるなんてまっぴら御免” っていう、こんな気性からだろうと思うのだ。 にほんブログ村

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