2013/05/26(日)17:09
続 戯言(たわごと)
戯言(たわごと)
身に起こることは全て 必然且つ偶然の事
そこに自我(~をしたい ~せねばならない etc…)は存在しない
物事は全て 必然 且つ 偶然に起こる 中略
これをより正確に言うならば
必然且つ偶然 という表現でさえ
心から出てきた言葉(概念)でしかない
必然も 偶然も どちらも 人の心が生んだ”戯言”でしかない
・・・などと書いた経緯を記します。
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真我探求っと修行を望んで、修行ができる方は少ないでしょうね。
世を捨てて修行できる方はもっと少ない・・・
でも、そういう方を羨ましいとも思いません。
日常の中で 真我 を見出すことは可能だと私は思っています。
マハルシさんも世を捨てることをすすめていませんでした。
それに同感しております。
環境はともかく 真我 を見出す人は見出すし、
自分の裡に見い出せない人は、一生苦行の修行しても見いだせないのでしょう。
しかし、真我を見出すきっかけというものは、皆に平等に与えられています。
なぜなら、見出す人は”アリンコ”を見ても
その中に 真我 を見出すことができるからです。
この世にある全てのものは、真我を通して映し出されており、
それらの土台に”真我”のみが存在するからです。
真我探求というと瞑想だとか座禅を組むことを想われる方がほとんどではないでしょうか?
瞑想にしても、座禅にしても呼吸を整え、心を静めることはできるでしょう。
身体の疲れも取れる感じがします。(空手稽古の後にやると)
でも私は座禅をしている時だけではなく、
稽古しているときでも、走っているにしても、
身体と呼吸の限界に近づいた時に、苦しさや痛みを感じないために
意識を身体に集中しないようにすると
これは私の身体ではない・・・っと言い聞かせながら動いていると
身体が勝手に動いているような気になります。
苦痛は減り、そのほうが長時間苦痛に耐えられます。
このやり方のほうが、座禅や、瞑想で心を静めるだけの結果しか得られない・・・
段階のものよりも、真我の意識(無心)に近いような感じが私にはあります。
座禅・瞑想というやり方を否定するものでは決してありませんけれど。
そういうわけで、不思議なことに座禅を組んで動かないで居続けることと、
身体の苦痛を感じている後で、それでも、それでも、身体を動かし続けることの先は、
どちらも同じような意識へと 我 を向かわせるようなんです。
要するに、座禅を組んでいることも、身体を動かさないことも苦痛極まりなくなるんでしょう。
(座禅はやったことないんでわからないんですけど)
それでも、その状態をなんとか続けないといけないと、自分を追い込むと、
座禅を組んで、苦しいのに更に身体を動かさないでいるのと、
身体の苦痛を感じて更に、身体を動かし続けるのとは、
どちらも苦痛状態にありながら、さらにそれを突き詰めようとすると、
ある状態へと導く、本能と直結したシステムが存在するんじゃないか?と想うのです。
(いつもながら全く何の根拠もありませんが・・・)
”無心にさせて、身体の苦痛を除去する本能システム”と言えるかもしれません。
このシステムを使うと案外楽に 無心 というものがどういうものであるのか?
ということを垣間見ることができるのだろうと思います。
そこまで身体を酷使せずとも、
何か、テニスでも、書道でも、楽器演奏でもなんでも!
無心に集中し、自分の身体、腕、足が勝手に動いている状態にあると、同じことが言えます。
(ただ容易に到達した無心状態は、同じぐらい容易に無心状態解除してしまうのかもしれません。)
無我夢中状態、この時にもやはり、主語も目的語も消滅しているんでしょう。
この時、”我”は取り除かれ”真我”が輝いているんです。
鏡が”神”に通じている状態です。
意識を飛ばすことと、意識を集中させ昇華させることは同じ状態なのでしょう。
どちらが向いているかは あなた にお任せします。
ただ、どちらもその状態を持続させるには修練が必要だとは思います。
状態の維持こそが難しい と言えるでしょう。
しかし”無心”の状態を垣間見ることが大切で、まずはそこからです。
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無心のたとえとして 石 になれ というようなことが言われます。
石 はあるがままにそこにあるんです。
誰が見ていようが、見ていまいが、
石は 主語もなく目的もなく、己が役割を果たしています。
蟻 は無心に餌を集めます。
本能に従って餌を集めています。
誰が見ていようが、見ていまいが、
蟻は蟻の本分を果たしています。
蟻と芋虫が出くわしました。
あるいは
蛾が炎の中に飛びこんでいきました。
ハエが蛙に飲み込まれました。
野良犬に子犬が誕生しました。
これは偶然だったのか?必然だったのか?
いろいろな理由を付けるのが人です。
それは、人に心があるからです。
Aさんと、Bさんが出会いました。
お互いに惹かれ、そしてしばらく時を共にし、別れました。
無限に広がる視点からみて、
蟻・芋虫・蛾・蛙・ハエ・野良犬 の上にみる現象と、
Aさん・Bさんの上にみる現象 には何か区別があるのでしょうか?
この間に区別があるとしたら、これらの出来事と言われることを
人は、心で計り・因果応報であれこれと思考する
”自我”という存在を持っている っということではないでしょうか?
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私はマハルシ師の著作を読む前に
”宇宙(無限世界とか天上とかいう言葉を使いましたが、
実際に無限なのか、天上の先の先にあるのかどうかさえも私にはわかりません・・・)
というのはなんと申しましょうか・・・
人知には決して計り知れない世界 というものだと思います。
次元を超えた世界といえるのかもしれません。
人が誇っている基準とか枠とかいうものを、
はるかに超えた世界であると思います。
そういう世界を感じる という視点・・・
これはありとあらゆる日常の現象に”新たな視点”を与え、
”目の前の日常の中に今まで想像もしていなかったような景色が映し出されてくる”
という不思議な可能性を含んでいる・・・
っと私は思っています。”
このように記していました。
この”人知(自我・個我の叡智)には、決して計り知れない世界”
というものが”真我”です。
自我・個我 で見ている、私・あなた・世界・日常・ありとあらゆる全てもの
と
”真我”で映す、私・あなた・世界・日常・ありとあらゆる全てもの
は
同じ世界であり、同じ日常の風景なんです。
ただそれを意識する本質の根本が異なります。
そして”真我”でそれらを意識したとき、
”目の前の日常の中に今まで想像もしていなかったような景色が映し出されてくる”
のです。
今の私ならば、このあと、以下のように続けて記します。
これは”不思議”でもなければ、”可能性”でもありませんでした
これを言葉にするならば、まさに 偶然 であり 必然 でありました
っと。
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