Maryam's HP 日記

2015/01/12(月)12:01

言葉について想うことイロイロ 其の弐

言葉(144)

前置きが長くなったけれど、お話の続きを。 ”魂を吹き込むっということには、 言語は関係ない っと感じている。” 外国語を学ぶ醍醐味は、やはり会話にあるのだろう・・・ っと個人的には考えている。 ペルシャ語を覚えると、タジキスタンの人とも会話できる。 タジキスタンの公用語はペルシャ語だから。 おそらくイランの周辺の国には、イラン系の人がいるから、 アフガニスタン、パキスタン、イラク、アラブにもペルシャ語を話す人がいるだろう。 当然だけれど、世界中にいるイラン人とも会話ができる。 ドイツに行った時に、ドイツ語がわからなくても、 ドイツにいるイラン人がペルシャ語を話していると 完全に話の内容がわかる・・・ その人たちは、まさか隣のベンチに座っている 息子とわたしが会話を耳にして、100%その意味を理解しているとは、 全く思いも寄らなかっただろう。 ちょっと、いじわるだったけどね。 でも、言葉をしっていればしっているほど、 言葉を通して得られる魂、エネルギーを受け取れる。 会話は意思の疎通をしているだけでなく、 実は魂の交流をしているのかもしれない。 とくに、ある人との関係が、言葉に頼る部分が多い場合は、 言葉の力を、大いに発揮できるのだろうと想う。 そんなことが分かってくると、 いかに英語(世界の公用語)が大事かってことが ヒシヒシと感じられてきた。 (自分の国を一歩外にでたら、 身をもってそれを感じるだろうけれど。) 遅ればせながら、最近英語の勉強を わたしがいそいそと、おっぱじめたのはそんなことが、 ぼや~~~~~んと見えてきたからだろうと想う。 この辺のわたしの感じたことをもっと詳しく記すと、 笑顔やら、視線、ちょっとした仕草や言葉にも、 意識しているしていないにかかわらず、 魂が宿っているわけだから。 言葉が日本語であっても、英語であっても、 もちろんその人の印が刻まれていることに変わりはない。 っということに気がついた。 そして英語で自分の思ったことを表現してみたら、 どうだろうか? っと書いてみたら、、、、その言葉は、 英語であっても、やっぱり わたし。おもしろ~~い! っと思った。 でも、その魂の印をはっきりくっきりさせる、 魂を意図的に刻む(吹き込む)、発信するには、 日本語、外国語を問わず、 その言葉の表現やら、語彙をしっていることが 大きな助けになるっということも同時に、 わたしには感じられた。 言葉は手段なのだろう・・・ ただし、侮ってはいけない。 言葉に頼りすぎても、 まったくそのあたりの言葉の効用をないがしろにしても、 言葉の力をうまく行使できないのだろうと感じている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

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