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凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

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2010.04.05
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カテゴリ:般若心経解読
国訳大蔵経の般若経を読んでいます。

ところが、般若経自身が法華経を、補っている事に気がつきました。

法華経も般若経も鳩摩羅什訳です。

法華と般若でも、両方とも同じ「仏の悟り」を意味する「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」が説かれています。
でもその言葉の定義が違うように思います。

法華経で言うと、阿耨多羅三藐三菩提は、支配側の「釈迦牟尼仏」が主体となり、「多宝如来」の威厳を借りて、大勢の聴衆に向かい「苦難服従の姿」が、衆生の「成仏に向かう過程としての記別」、「忍従こそ仏になれる条件との智慧」と定義されています。

一方、般若経では、特に般若心経では一人「舎利弗」に向かい、仏の内証を「観自在」という菩薩を主体に代弁させて、支配服従の衆愚な関係から離脱しなさいという「束縛解脱」と、自在な影響力の発露として、自分の心の中に仏を生み出し、自在な智慧を発して世の中を変えて行きなさいという「自発の智慧」が定義されています。


鳩摩羅什は、権力支配服従強要根拠の「自発的忍従」の法華経翻訳と同時に、権力支配にあって衆愚否定と、秩序構築への「能動的自発」の智慧として般若経を翻訳していたというわけです。


この西暦401年 の中国の、後秦の皇帝姚興の治世に、この鳩摩羅什訳の経典を普及させて、後秦による中国の中心部の統一が実現していきます。


鳩摩羅什が翻訳した法華経は、その民衆への支配根拠と、軍隊への忠誠根拠、そして敵対する勢力への思想防御としても強力な力を発揮したでしょう。

法華で、過去の善業と因縁が、今の世の封建支配服従関係の根拠になり、今の善業の功徳の徳積みが、来世の成仏と、支配側への生まれ変わりとなります。
その成仏の手段として、「今の自己犠牲を喜んで受け入れ、苦難を耐え忍び美化する」強要が、法華経にあります。
他人への苦しみを強く受け入れば受け入れるほど、来世は仏になれる時間は短くなる。悪人も自分を向上させる糧として、ただ耐え忍ぶ姿が成仏に向かう自覚となる。
阿耨多羅三藐三菩提とは、忍従賛美の評価判定。
法華経を持つ私の姿こそが、泥に咲く蓮の花。
そういう思想です。


一方で般若経では、世の中は空だよ、幻だよ。支配方便だよ、目を覚ませよ、との服従受容の解毒剤に使われたのではないかと思います。

世界は、他人によって自分の心へ作り出された、対象のない空想の舞台を見る観客と気づいて、舞台全てを、何も無いものと心の中にリセットしたら、まったく意味をなさないからです。

困難そのものを空想と捉えて、受容せずに、問題解決への発明力を湧き起こす祈りの力を生み出し、その解決プロセスとシステムを生み出す精神への化学反応。

阿耨多羅三藐三菩提は、舞台をリセットして自分で再構築する能力。

これが般若の智慧、すなわち般若波羅蜜だと思います。

武官の兵士には、法華経を学ばせて困難に立ち向かわせ、士官や文官には、法華経と般若経を学ばせて、解決の智恵を磨いていたのではないか。

鳩摩羅什は、そこで法華経に足りない、自発的意志のプロセスとして、原本に無い「十如是」を加えたのではないでしょうか。

さらに観世音菩薩品二十五には、原本にはある、観自在菩薩が浄土へと導いて阿弥陀仏へ来世に向かわせる部分を省略して、自分で問題解決すると、観世音菩薩が助けてくれると法華経から他力本願を切り取り、自己克服、自己本仏に書き換えたように思います。

そう読むと、両方の経典に役割とバランスが見えてきます。


(法華経の内省的変容の詩編)

この悲しみの、おかげ。
この苦しみの、おかげ。
絶望は、深い峡谷の
遥か彼方に、そびえてる。
ひときわ目立つ、あの山頂。
あなたへ、おいでと呼びかける。
呼ぶ声を、聞いたのは誰。
呼ばれたら、行かねばならぬ。
行くのは、誰。
声を聞いたのはあなた。
誰かが行くのではない。
道がないから行く。
道を作るから行く。
あなただから行ける。
そう、行くのは、あなた。
そう、行くのは、私。
装備を整え、火の海へ飛び込め。
最悪を考え、針の山を登れ。
この困難の、おかげ。
この悲しみの、おかげ。
あの山を登るのは、誰。
そう、私。私なのだ。
そう、前へ進むのだ。
そう、行かねばならぬ。
泣いて逃げてなんていられない。
笑い飛ばしては、あの山へ行けない。
声がする。
あなたの足跡から、道が生まれ、花が咲くのです。
私は答える。
わたしの足跡から、道が生まれ、花が咲くのだ。
すべては、この困難さんのおかげさまなのだ。
苦難の中に道ができると。
困難さん。ようこそ。
苦難に耐える。
仏になれると
あなたは言ってくれました。
ああ私は、なんと美しい。

(般若経の内面変容の詩編)

この世につながる
智慧を知れ。

まわりの景色や
人々の姿の
移ろいを
追いかけもせず。


その奥の
ココロを見つめ
内面世界をしり
心の中に
理想の世界を
思い
みんなとともに
築きあげたいと
祈る。

そんな毎日を
日々繰り返し
続けて積み上げていく。

それが人々に
受け入れられるものなら
すると
気がつくと
自然にそのように
なっていく。

誰がしたというのでもなく。
ずっと昔から、
そう願われ、
続けてきたから。


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