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カテゴリ:彫刻について
芸術家の創造の苦しみ 佐藤忠良 1958 抑留されてシベリアの収容所生活をしていた頃の話である。 トンボ式といわれる二段寝台の上では、永い捕虜生活にお国自慢も、食べものの話も、女の話も尽きてしまって、いつの間にかみんなにはだんまりの日が続きはじめた。 娯楽らしいものもない頃だったし、食事の時間のくることと、タバコ喫みでない者でさえそれが好きになるくらいの生活だったので、みんなの心の中では無気力といらだたしさが交互にもつれ合っていた。 程度の差はあっても、一度文化らしい生活をした者にとってそれはたまらないことであった。 順応性というものは、人間を生きることの最低線まで容易に持ってゆにとができるものだ。 しかし、われわれはそこから先へはどうしても行けなかった。 申し合わせたようにみんなは木を削り始めた。 禁制の刃物を床下からこっそりと取り出して、太い白樺をゴシゴシ削るのである。 大学の教授であった人も、町のおじさんだった人も、現役で入隊した若者も、かつて得た知識などというものは大したことではなかったような面持ちで黙々と削る。 そこからは、自分たちが使うスプーンやパイプが需要以上に産みだされるのだが、それでも誰も削ることを止めようとはしない。 太い材木なら、たち割れば、幾つもスプーンやパイプが作られるのに、木目のいい白樺の叉から小さい作品が出てくるまで、太材を抱えてゴシゴシやっているのだから暇がかかってしょうがないし、馬鹿げていてご苦労さんな話というほかはない。 その中でたった一人の専門彫刻家の僕がかえって何もしないで、うす闇の中で丸くなって削っている人々を眺めて暮らした。 人間というものは、自分が人間であることを叫ばずにはいられないときにいろいろな表現をするものだが、僕がシベリアで見たものはそういう一つの姿だった。 「私はなぜ彫刻をつくるか」、こういう題名をもらって僕はある会で話をすることになったとき最初にこの話をした。 他人の話ならこんなに聞いてみたい題はない。 ところが、さて自分はなぜ彫刻を作るのだろうかと自問してみても、納得できるような理屈がどうしてもうまく出てこなかったからだ。 人は生まれ出たとき一番初めに自分の肌を通して母を感じ、これからの人生の足がかりを触覚によって知るだろう。 彫刻が触覚に終始するという点では、素朴な意味でこのこととまったく同じだという気がする。 シベリアの仲間たちの数多くの作品は、圧縮された情熱となって、木削りの中からこうして生まれた。 芸術家の創造の苦しみという課題をもらいながら、他人の産み出す苦しみを傍観的に語ってばかりいるのではよくないのだが、最近矢内原伊作氏から聞いた話をもう一つ付け加えたいと思う。 これはシベリアの仲間たちが、シベリアというところで生まれて初めて木を削り、何かを彫ったということとはまた別に、一人の専門家がどのように激しいたたかい方で仕事をしているかという話である。 彫刻家であり画家であるジャコメッティ氏と親交のあった矢内原氏は、永いパリ生活を離れるという十日ほど前に彼のアトリエを訪れた。 前から矢内原氏をモデルにして描きたいといっていたので、もしよかったらモデルになってもいいと申し出たところ、十日間ではどうかわからないけれどもやってみようということになった。 粗末で小さなアトリエに15号ぐらいのカンバスを立て距離をはかってモデルの座を作った。 毎日午後二時になると矢内原氏はそこに座り、夕食も抜きにして夜の11時頃にならなければ仕事はおしまいにならない。 その間、用便かタバコの時間ぐらいしか自由がきかないし、奥さんは隣室で毎日空腹を抱えて待たなければならない。 ジャコメッティ氏はすべて人間が小さく見えるらしく、その絵の中の矢内原氏の顔もほんとうに小さく描かれるのだが、なかなか満足にいかないようで、幾度も細い筆を買いかえてはやり直す。 こうして筆をかえ、カンバスをかえ、距離をかえて何度も描き直すのだが、絵がうまくいかなくなると、わめき、叫び、遂には泣き出すことなど度々で、仕事はいつ終わりになるかわからなくなってしまう。 その苦しみを見ては矢内原氏も飛行機の予約を変更せざるを得なくなり、十日間の約束がとうとう二ヶ月ものびてしまったという。 いよいよ、それ以上のばすこともできなくなって、パリを発つ時、ほんの数時間だったが、仕上げを急ぐ気持ちになってはいけないがといいながらまた筆をとり、今度いつパリに来るのか、もし来ないようなら自分から日本へ行くかもしれないと真剣に語ったという。 その後また、矢内原氏はパリへ飛んで行き、前と同じようにモデルの座に座って来たということである。 モデルになってみたことのある人ならよくわかることだが、恋人を待つのに二時間も三時間も待つ忍耐のある人でも、モデルの十分間はつらいものだ。 人間が自由をうばわれるつらさである。 このことは詳しく矢内原氏が方々に書いておられると思うし、もし間違っていては失礼になるのであらましにしたいと思うが、火花の散るような作家とモデルの二つの闘いの様を想像して、僕は自分のことを考えてみた。 おそらくジャコメッティ氏にとって一本の細い筆が、なおも太いということは、太さのない線を探し求めているからではなかろうか、エッチングの線でも彼には太過ぎるというだろう。 線がなければ形態が表現できない悲しみと、線があるから表現できるよろこびとが彼の中で矛盾しながら交錯して闘っているにちがいない。 そのことは、ジャコメッティ氏の彫刻を見ると以わかる。 心棒にできるかぎり細く土をつけて、やせるだけやせさせた彫刻。 像を立てるためにはどうしても心棒がいる。 その心棒でさえ邪魔になってしょうがないといった風に粘土をつけているのだから、彼にとってこれがぎりぎりのところだと叫んでいるようなものだ。 暇があるといつも粘土を手に握って、なにかわけのわからぬものをひねりまわし、いつの間にかそれが粉のようになくなってしまう。 ジャコメッティ氏がわめき叫び、泣きだしたくなる気持ちもわかるような気がする。 彼にとって、その瞬間が最尖端であり、真実でなければ絶望だからなのだ。 モデルを見ながら仕事をすすめるということは本当に珍しいことのようだ。 矢内原氏が偶然モデルに選ばれたとしても、それは矢内原氏ではないのかもしれない。 彼はよく、眼から鼻へかけての辺りやくぼみがむずかしいというそうだ。 そしてそこが出来ればそれですべてだと考えているらしい。 造形というものはそういうものだからだ。 一つのくぼみは、全部に支えられていようし、逆に全部を支えてもいよう。 そしてそのくぼみはどんな人間にも通じている穴なのである。 僕たちはよく、あの顔彫刻にいいとか悪いとかいうが、しかし、ジャコメッティ氏にとって顔はどれもこれも、今生きている素晴らしい人間の顔なのである。 彼は、アトリエの外の風景も、スイスも日本もみんな同じで素晴らしいのだと語る。 だから特別に旅行をしながら絵になる風景を探して世界中を駆けめぐる必要はない。 筆も持ちあがらぬほどに疲れ果てて、みんなでレストラントのテーブルについたときも、そこに並べられた食器の配置が気になって、位置を動かしながら食事もうわの空だというジャコメッティ氏の姿を想いうかべながら、僕の聞いた話と勝手な理屈はおしまいにしよう。 作家にはそれぞれいろんな型もあろうが、作品にとりかかってから時間のかかることでは、僕もジャコメッティ氏に劣らないほどである。 だが時間のかかることだけでは自慢にならないことは、僕のアトリエの作品がそれをよく語っている。 今僕は、自分のアトリエの棚の上にずらりと並んでいる首や裸の作品を眺めながらこれを書いている。 なまぬるい適当な空気がアトリエの中を支配していて、僕は自分の歩んできた跡を振りかえるとたまらない気がする。 僕は写実を志しながら、写実のすごさをちっとも知らないで来てしまった。 ものを見るということは、たしかに作家に一種のよりどころと安心感を持たせるが、見ているという安心感ほど危ういものはない。 時間がかかっていることと、見ていることとを同じ次元にのせて作品にしようとしても、そううまくいってはくれない。 土工仕事なら時間をかければかけただけ、穴も深まろうし、土も盛りあがろうが、芸術の仕事だけはどうにもならない。 僕も一応の理屈は知っていたつもりだった。 にもかかわらず、僕はモデルを利用しているつもりで、モデルの中で骨抜きにさせられていた。 赤岩栄氏はギリシア神話にあるケンタウロスを例にしてうまいことをいっている。 半人半獣つまり、頭が人間で胴体と四肢が馬というグロテスクなもの、これが僕たち人間の姿なのだが、それにひきかえ動物たち、つまり猫や犬や馬は、すっかり自然という完璧さの中にはまり込んでいて、それ自体が完璧性を持っている。 しかし、人間も動物と同じように、自然から離れて生きることはできないがそうかといって、自然という完璧さの中に猫や犬のように没入してしまったのでは人間性が失われて、進歩も発展もなくなってしまう。 ケンタウロスの頭は不完全さを求めてこれからも永い間自然と闘わなければならない。 人間であるはずの僕が、猫や犬のようにモデルの完璧の中へはまり込んでしまって、いつの間にか完璧さに安心し切って棲息していたらしい。 ケンタウロスは不完全なるが故に闘うことを知っている。 僕は今、早くケンタウロスの仲間入りをしなくてはならないところへ来ているようだ。 人は若い頃、必ず一度や二度は死にたくなることがあるものだそうだが、僕はかつて一度もそこまで自分を追いつめてみたこともなかった。 そういえば動物で自殺したという話をきいたことがない。 自らを死へ追いやることは必ずしもいいことだとはいえまい。 だが僕はそんな話の出る度に何かコンプレックスさえ感ずる。 あまりにも完全性の中で順応して来たためかもしれない。 ロダンは、ギリシア彫刻に憧れながら、死物と化してしまった彫刻の完全さにいどんだ。 たしかにロダンは近代のケンタウロスであった。 芸術家は孤独だなどと、いい慣らされて来た気障な言葉を本当に使えたのはロダンだったような気がする。 ロダンを鼻で笑ったゲイジュツ家がいた。 その人は突然変異で頭が馬になり、胴体と四肢が人間になったケンタウロスの変形であった。 とにかく僕は、さきほど述べたように、自然と自分との関係については、人様に笑われても仕方もないようなおくれ方をしていた。 だが、そうなっていた僕にも、僕なりに日本の彫刻に対して自分の とって来た態度と意見はあったが、今は泣き言や負け惜しみはやめた方がいい。 彫刻家のアトリエに忍びこんだ泥棒が、そこに並んでいる人間の像や首におどろいて、あまりの不気味さに逃げ出した話がある。 真夜中であれば一層気味が悪いにちがいないが、日中でも具象彫刻家のアトリエはあまり気持ちのいいものではない。 僕は自分のアトリエに慣れてしまっているからそういう感じが薄らいでいるけれども、初めて来る人は異様な感じがするだろう。 専門にやっている僕でさえ仲間のアトリエを訪問する度にいつもそう思う。 それが一見写実的な作品であればある程そうなのである。 写実と一口にいっても、これが今日的な意味で捉えられ表現されたものであったなら、また別な空気をアトリエの中にもたらすことだろうが、再び自然を室の中へ持ち込んでいるのではたまらない。 泥棒でなくとも逃げ出したくなるにちがいない。 変になまなましくて、いやでもこちらに語りかけてくるものが多いからだ。 一つの彫刻があまり作品の中でおしゃべりをするということは、それだけ彫刻から遠くへ行ってしまうことになる。 僕の作品には情緒性が勝ち過ぎているとよくいわれる。 情緒性さえもなくなっていた日本の彫刻の中で、これが僕の作品を支え、ある種の支持を得てきたゆえんだ。 僕はどれだけこの情緒性というやつのおかげで、彫刻の中の造形を見失っていたかわからない。 歌謡曲を愛する日本人の中にはまり込んで、僕も結構いい気持ちでもの思わし気な歌謡曲を一生懸命唄っていたようだ。 職業的惰性というやつ、こいつが僕の中で相当習慣化されていたのだから病は深い。 泥棒がおどろいて逃げ出すアトリエというものは、この職業的惰性が作り出した異様な臭いだといえる。 たとえば、モデルが来て裸になって台に立った。 彫刻家は前日の仕事を今日も続けるために、彫刻から巻布をとりのぞき、手にへらをとる。 モデルは立っていた足形の上で昨日と同じようにポーズはしているのだが、もう最初に仕事を始めた時のような感動もなくなって、モデルがただそこに在るというに過ぎない。 彫刻家の目は今日もますますモデルに近くなり、へら持つ手は反射的に彫像にとびついてゆく。 面白いことに、何を作ろうとしていたのか彫刻家の方もわからなくなっているくせに、そうやって反射作用を繰り返すことが結構面白くなってしまっている。 彫刻という仕事は他の美術とちがって、軽快に事が運ばないだけに、感動の持続というものがむずかしい。 そこの隙間をねらうようにこの職業的惰性がやってくる。 そうなったら作品の勝負は大体ついたようなもので、実際はもうどうにもならなくなっている。 だが、これがまた変なもので、ご当人にしてみればそれだからこそ、その作品からますます離れられなくなっているといいたいところだ。 馬鹿な子ほど可愛いというやつかもしれない。 そんな仕事振りはお前だけだと、彫刻家たちは怒るかもしれない。 だが、僕の目には日本の具象彫刻の大半がそういう風にして出来た作品だとしか見えない。 ある日展作家が僕のところへ今年のポーズの相談に来た。 大体ポーズの相談に来るなどということが滑稽な話だが、ご当人にとっては真剣なことなのだから僕も真面目な顔をしてきいた。 毎年、日展の偉い先生にポーズを作ってもらって作品を作って来たけれども、いつも胴体は同じで腕だけが上がったり下がったりだし、今年はもうやることがなくなってしまったというわけなのだ。 裸を作ることもいいが、人間は裸になれば一つの胴体と頭と四つの手足しかないのだから、その数個の機能をうごかして作家は何かを作るために、よほど優れた頭脳と主張を持っていなければならない。 昔から彫刻家は裸を作っていたから、自分も裸を作るというだけでは習慣があるだけで、ポーズのためにポーズに困るのは当然なことだ。 四つか五つしかない手足や胴をただわけもなく上げたり下げたりしていたのでは、数年もすればどうにもならなくなるのは当たり前で、お恥ずかしいほど知恵のない話であろう。 しかしこれは、他人だけの話ではない、現実に僕が同じような穴にはまり込んで、友人に助けを求めてしまうことがある。 日本の今までの彫刻家の大部分がちっともよくならなかったのは、多分こんな作家魂で職業的惰性に甘んじながら仕事をしていたからだろう。 ただわけもなく、腕をあげ、脚を組んだ女の裸像がいくら展覧会に並んでいても、人々がちっとも感動しないのも無理はない。 年毎にこう惰性彫刻がたまってゆくのでは、アトリエの空気はますますどんよりとよどむだけになってしまう。 電子音楽が、鋼鉄を叩き、ガリガリとひっかく音で始まると、僕はどきりとする。 アンフォルメルの絵を見ると、その鮮度に心をひかれる。 だが僕はここで電子音楽やアンフォルメルの絵にまるっきり傾倒したいほどの気持ちになっているのでもなく、今までふれて来た限りでは、芸術としてそれを丸ごといただく気にもなれない。 にもかかわらず、それらは何か気になる魅力を持っている。 粘土で形をつくり、それを石膏に直し、更にブロンズにすることを最終の目的にして来た者にとって、材質というものは形のために殺しそれをまた生かして使うことであった。 一度火で熔かされた銅は型へ流しこまれて再び形となって現れてくる。 少なくとも、彫刻が空間を保有するまでに、幾度も中間的な経過を必要とした。 今は材質抵抗の時代だ。 建築にも、服飾にも、唄う声にも、サラッとしたテクスチュアが今日ほど素朴に要求された時代はかつてなかったかもしれない。 新しい写実主義が、べたべたした肌ざわりでいていいわけがない。 湯気の向こうの裸体をみるような、カーテンのあちらの美人とお話しているような、そんなまだるっこい気どりは今はもう受け入れられない。 ぶっかいた石の断面がガッと来たら、も一つハンマーをくらわせてやるくらいの抵抗を僕もこの身体で実験してみることだ。 彫刻が材質抵抗の芸術だからといって、力だめしだけで造形ができるとは思わない。 だが、人間の産み出す芸術はどちらにしても手工芸的な操作を繰り返すよりほかにしようがないのだから、この手と肌で当たってみることも表現の手がかりになる大事な方法の一つだといえる。 木や石の彫刻が異常な迫力で迫って来ることがある。 粘土のように自由のきかない不自由さが、材質にその分を語らせてわれわれに迫って来るのである。 ただ危ういことに、もしこれが石膏だったなら見られもしない形だろうと思われるものさえ、木や石という材質に扶けられて一応見せるということだ。 だが質だ質だとあまり騒ぎ過ぎると、おしまいには石ころでもいいということになりかねない。 色がチューブに入ったまま、いくら美しく並んでいても、遂に色彩にはなり得ないで絵具のままで終わるに似ている。 ちょっと錯覚をおこすと、山下清君の絵が芸術だと騒ぎ出すように、木や石にほれ込んで、絶叫してそれでおしまいということになりかねない。 清君も、いわゆる清君といわれていた16、7歳頃までの絵のほかは僕は大して興味を持つ気にはなれない。 一種の精神異常が、芸術のなにかの要素とうまく結びつく面はあっても、そのすべてが芸術だとはいえない。 清君は少しばかりの智恵をつけられたばかりに、大切なたった一つの要素までもすりへらされてしまったのだ。 人間には高い知性が必要だし、それが芸術の深さに関わってくるのに、中年の清君が知性もなく、美しかった宝物まですりへったのではどうにもなるまい。 造形の操作だけで、石や木や鉄が持つ個性を一個の抽象として存在させ得るのは、ただわけもなくうれしいことにちがいない。 だが僕は、そればかりに没頭してそれですべてだという考え方にはどうしてもなれない。 いつか、工業デザインを作る人たちと、新しいことと古いこととの論争をしたことがあった。 僕たち彫刻家はまるっきり遅れていてお話にならないということで、軽くけいべつされたような形だったが、意地の突っ張り合いは別として、僕はその幾分かは認めざるを得なかった。 だが、デザイナーのいう空飛ぶ飛行機をご覧なさい、新しく、機能と形があるではないか、デザインとはかくの如きのものだし、新しいとはそういうのであった。 これはもっともなことで、彫刻家の誰一人それに不服をいう者はいなかった。 飛行機ならずとも、街を歩けば工業デザインや、商業デザインの発展を僕たちは素晴らしいと思いながら眺めている。 だが飛行機ばかり見ていると、下の方では、それと比例するように地べたを這いずりまわっている人間が多くなっているのを忘れてしまう。 デザイナーはこういう人たちのためのコップ一つデザインしたことはないかもしれない。 しかし僕たちは、それを彫刻にしないではいられないことがある。 僕にとって、今地べたを這いまわっている人間も新しい事実だとしか見えないからだ。 浮浪者にもこじきにも洗練された速力感などあろうはずがない。 だから新しくないということであれば、少なくとも僕のような彫刻家にはそのままはいただけない。 ただしそれは、日本という現実が産み出す新しさで、新しいとは、浮浪者やこじきのことだといっているのではない。 もっとも、それではこれを表現するとなって、例のべたべた彫刻では、ものの説明にしかなり得ない。 新しい造形の方法が必要になってくる。 そうでなければ新しいリアリズムとはいえないからだ。 しかしこれはむずかしい。石や木に手を加えて造形のよろこびにひたっているのは、これに比べれば天国のようなものだと思う。 表現はたった一つではない、そんなに不自由に考える必要はないが、題名に金持ちと書いても、浮浪者と書いても、どっちにも見えるような作品を僕は作りたくない。 ただ、二宮金次郎はこのように感心な少年であったというお話彫刻になってはそれこそ地獄へ堕とされよう。 広重や北斎の時代に、作家が演説をして人様に自分の芸術を訴えて歩くということはなかったにちがいない。 僕たちはこうして書いたり、沢山の人たちの前で講演をしたりしながら、自分の専門の仕事のことについて訴える。 研究会やサークルも盛んになってそこでも大いに議論が交わされる。 おそらく日本の芸術の歴史の中で、今日ほど展覧会の多いことと、よくしゃべることの多かったことはなかったにちがいない。 美の基準は失われたし、仕事と言葉でいつも激しく自己を主張していないともたないというのが実感だろう。 日本のあらゆる文化はジャーナリズムに誘導されているといっても過言ではない。 美術も御多分にもれずその枠外で棲息することができなくなっている。 試しに毎月の美術雑誌を手にとってみると、むずかしくて何度読んでもよくわからない記事が必ずのっていて、それに対して次号にもっとわからない反論などがのっている。 僕はご両者の頭の良さに驚嘆してしまうほどだ。 芸術を言葉で表現すること自体がたしかにむずかしいにはちがいないが、当たり前のことをもっと当たり前にいえないものだろうか。 批評家の中にも便利な人がいて、具象から抽象まで即座になんでも理解できて全集ものの解説などには大変都合がいいのだが、ときには具体的に作品批判になると、作者が意図していたと思われる以上にその作品を哲学的に評論してくれて、作者もああそうだったかと、あらためて自分の哲学的才能に自信を持つという具合でいかにも頼りないやりとりがあったりする。 僕もよく研究会などに出席してむずかしい話の渦中にまき込まれて閉口することがあるが、随分いいことをしやべり合った割には、お互いの仕事が良くなっていないような気がする。 こういう会合には出席していないと不安になって、出てみるともっとわからなくなるが、どうもこれは一種の中毒のようなものらしい。 中には上手な研究会マニアがあって、あげ足取りのツボを心得ていて、こんなのにひっかかると大変なことになってしまう。 作家というものは、自分の肉体を通して作品を作ってゆくものだから、こういう複雑な言葉の中へ自分を突っ込み過ぎると、いざという時には手も足も出ないで、描かざる傑作ばかり夢見るようになるか、あまりしゃべり過ぎて、筆やへらを握ったときは、発想と情熱の焼け切ったカスだけしか表現できないという結末になりかねない。 僕たちは今よほどむずかしいところで生きているようだ。 昔のように上手か下手かで勝負の決まる時代には、鍛練だけでもある程度の芸術的通用性があった。 ボリショイのバレエを見ても、あの安定感と機械のように正確な力は鍛練から出て来たものだと頭の下がる思いはするが、ああして古典バレエばかり見せつけられると、あの振り付けはもう現代の呼吸ではないという不満が同時に心の中で膨れ上がる。 そうかといって、カミュだ、ジロドゥーだサルトルだと、よさそうなレパートリーばかりに食いついて、これはわれわれの世代でなければ理解し表現できないものだと気負いこんで、学芸会芝居をぶつ若人たちのヨイヨイ爺さんのごとき舞台はとても気の毒で見てはいられない。 芸術がうまくゆかなくて自殺したなどと古風な話を聞かなくなったこの頃、芸術は確かに一種の消耗品化した傾向がある。 あまりむずかしく考える必要はないのかもしれないが、僕などには、まだまだ理解できないことがたくさんあるらしい。 永い間僕たちの会に出品して入ったり落ちたりしていた地方の人が、その年はちょうどうまく入選して作品が並んだ。 会も終わり、すぐ次の別の会の展覧会が始まると、その会に彼の作品が、今度は僕の会に出していた具象作品とはまったくちがって、純然たる抽象で出品されていた。 一人の作家がどんな作品を作ってどこへ出品しようがそれは自由だけれども、僕は彼をよく知っていたので、その会の会員に聞いてみたところ、一番いい成績で入ったのだということだった。 僕は早速彼に、僕の会の入落の成績と、抽象作品の好成績だったことを手紙に詳しく書いておくった。 やがて彼から僕が予想した通りの返事があって、地方にいると中央の動きに敏感にはなるし、中央での入落が生活の上でも大きな影響があるので、どちらかにしたいと思って両方に出品してみたのだということだった。 彼は同時に二発の弾丸を放ってみたのだ。 試みた賭は抽象彫刻に当たって、それからはその方に新しい出発をしたようである。 これは今の日本の美術の、大きくいえば文化のある型をよく表しているいい例だと思う。 あの手この手の文化、これも消耗品だと思えばいいのかもしれない。 多かれ少なかれ僕たちは、この不思議な国に生きていて、いつの間にかあわてた駆け足をしている自分に気のつくことがある。 世界中でこんなにテンポの速い国はないという。 知らないうちに自分までが消耗品になっていたのではたまらない。 よほど気を入れた仕事をしていないと、気のきいた風のタイミングでは見事に足をすくわれることになりかねない。 芸術家の創造上の苦しみという課題から、話はかなり横ずれしたままおしまいになってしまったが、アトリエの中だけで超然としていられるなどという無神経は、今の僕たちにはとても許されなくなっている。 芸術家の苦悩をつき合せれば、運動が膨れ上がるだろうし、運動があれば必ず抵抗が出てくるのだということを、あらためて自分にいいきかせたかったからである。 芸術家の創造の苦しみ 「講座現代芸術2 芸術家」1958年 勁草書房 ※※ 佐藤忠良先生の言葉に触発されて思いました。 平成が去ろうとしている今。 私にとって平成とは、なんだったのだろうかと。 平成時代を振り返っています。 昭和の職人価値観は一変して、バブル以降、平成は貴族劇場の消費共同幻想概念のアイコン化がゲイジュツとメディアの象徴化が進みました。 現代美術という名に浮かれ、メディア追従のオマージュと、個我の解放と独創の発露と謳歌に酔い知れて、ヘタレで変なモノがイイとおだてられる芸術家たち。 加工技術や、ミスマッチの驚きにマーキングすると、大勢の賛同者が、集まる成功体験。 それを現代美術の力と評価して観光振興に結びつけようとする行政。 〇〇の●●という、ロジックの遊びが、ゲイジュツになる悲しさ。 それら社会学的視点は、枝葉のざわめきやこもれびの移ろい変更を無限に追い続けるようです。 自然を観察して、それを作り出した存在への畏敬の念を持って、自然界の命を物理的法則と勤労で、再現する喜びを、駆逐しようとしているように思えてきます。 次の時代は、自然賛美の生存共有構築の勤労生産に価値観を持つ時代にもどしたいものです。 自然を写すアイコンではない、自然に学んで自然界の意図と法則を再現して感動を共有するプロセス。 自然を創り出した存在の力に畏敬の念を抱きながら制作する。 この自然の観察からもたらされる、制作の動機と方法と勤労による命ある仕事こそが讃えられる時代としたい。 彫刻家は、この地球の歴史の中にあって、自然界が持つ、時間と進化の生命のエッセンスを賛美したいと思います。 佐竹忠良先生の彫刻を見ると、人体が、しなやかで強靭な樹木に見えてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.01.29 12:50:39
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