矢延平六ものがたり(68)
矢延平六が建設した、仁池までの水路。矢延平六の技術の素晴らしさは、水を引いてくる水路を選ぶ測量技術にあります。「飯山町誌」より「仁池」仁池(にいけ)池の畔にある神社の碑文には、仁池は矢延平六叶次(やすつぐ)が高松藩主松平頼重の命により築いたもので、慶安元年(一六四八)六月二十八日着手し、翌二年三月二十五日竣工と録されて いる。『法勲寺村史』によれば、栗熊片岡家の「仁池由緒記」にも同じ 年月が書かれ、更に「堤根置四十八間、但長五十二間、堤東西七十 間、同水之時水溜波打より波打迄敵数三十六町余といえり、右普請成就まで人足六万八千三百九十八人と言う者なり」とある。池の改修は、築造後八〇年たった享保十四年(一七二九) にゆる替えをしている。その後文化八年(一八一一)に本揺仕更の普請をしたことが、安政七年(一八六〇)「十河家文書」の「仁池揺更御普請一件留」に見 られる。そしてこの「仁池揺更御普請一件留」では、安政七年三月、揺更(ゆるがえ)の願いを各庄屋連名で出している。 庄屋の名前は、「上法軍寺村 三好恒之進、富熊村 三井茂兵衛、栗熊西村 平尾半右衛門、東坂元村 喜田虎助、東川津村 沢井林五郎、西川津村 高木紋蔵、東分村 甚太郎、宇足津村 久住藤兵衛」で、安政七申年三月に大庄屋の木村茂一 郎、十河千太郎の両名へ願い出ている。この工事が実現したかどうかは分からない。次のゆる替えは大正九年(一九二〇)に行われた。宝暦五年の調査による「十河家文書」 および上法軍寺久米井家の「池之事・井手之事」によれば、仁池についての記録は次のとおりである。一、仁池 此水懸高 四千三百五拾三石(内訳は前節のとおり)水留面積附り一台目 西方にて亀甲一東 栗熊西村御林下一西 岡田村田地端一南 大道迄一北 本堤 根置 四拾問 長弐百間 高サ 九間 上幅四間一上櫓 壱ヶ所柱 長二間半末口一尺二寸 八本聡指木 長二間半末口一尺二寸 四本貫木 長二間厚二寸五分幅七寸 二本梁木 長二間 末口一尺二寸 四本桁木 長二間半末口一尺二寸 二本ささ羅木長二間 末只一尺二寸 四本筆木 長二間半末口一尺二寸 二本 〆木 二十六本一二番櫓 木数 右同断一三番櫓 木数 右同断一四番櫓 木数 右同断筆木一本、大戸木一本一本揺 打盤揺内法 横一尺二寸、厚さ六寸、高一尺三寸、長四十間一竪樋 栂長拾八間 内法右同断 寸本六 六寸五分矢延平六さて、飯山町の見池・大窪池・仁池の三池築造にかかわった矢延平六はどんな人であったのだろうか。平六の経歴については記録に乏しいが、 飛渡神社の碑文および 『香川用水史』 に書かれたことなどをまとめてみると、慶長十五年(一六一〇) 生まれで、常陸下館(茨城県) 藩主松平頼重に仕えていた。寛永十九年(一六 四二)に頼重が讃岐高松藩主となったので平六は讃岐にやってきた。その時三三歳であった。録画し禄は低く、晩年でも郡奉行預り手代一三石どりで あった。平六はもともと土木の術に長じ、讃岐入国以来郡奉行配下の技術者として土木工事に専念し、各地の池普請に手腕を発揮し新池一〇〇余を築 いた。また土器川右岸の滝鼻出水とその掛井手をつくった。近くの岩肌 に「天和二壬戌(みずのえいぬ)暦、五月上旬、此井手成就、矢延可(やす)次」と刻まれている。 天和二年(一六八二)は平六の晩年に近い。この滝鼻には昭和三十二年(一九五七)に、矢延翁頌徳碑が建立されている。平六はこのように讃岐の水利開発に尽くしたが、仁池の築造に関連して、必要以上に池を大きくしたと告げ口をするものがあって、とがめを受け浪人となった。 平六は阿波藩士柏回元馬(かしわかどもとめ)を頼り阿波へ移り住んだ。その滞在中よもやま話の中で、自分の不幸せについて語ったのが、阿波藩主蜂須賀綱矩の耳に入り、その取りなしにより再び高松藩に復するこ とになった。これによく似た話はひょうげ祭りで有名な香川町浅野の新池にもある。平六は晩年宮熊村に住んだが、 七十四歳の時病に倒れ貞享二年(一六八五)七月一日七十六歳で没した。 元禄十年(一六九七) 富熊沖の住民は、飛渡地区(現飯南農協富熊倉庫)に平六の遺徳をしのび神社を創建、飛渡神社として崇拝してきた。 飛渡神社は昭和二十四年(一九四九) 南へ二〇〇メートルほど離れた土地へ移転、更に昭和五十七年六月平六ゆかりの仁池のほとりに移され、仁池土地改良区が管理にあたっている。飯山町誌昭和63年発行一矢延平六一新池、仁池など築造徳たたえ神にまつる「讃岐のため池」p421-p423香川の農業はため池によって発達し、ため池築造の歴史は、即、県農業発達史といわれる。これほど、県下の農業とため池の関係は深い。事実、過去数百年間、農業発達に向けられてきた努力の大半は " 用水の確保” すなわち、ため池の築造であった。古くは、弘法大師が改修したと伝えられる満濃池をはじめ、近代的な装いをこらした池に至るまで、それぞれの池に有名無名の水の恩人がいる。かつて生駒時代、西嶋八兵衛は、今日著名なため池のほとんどを手がけ、わずか数年にして実に90余の池を新築、または増築し、讃岐の水利開発に多大な功績を残した。高松藩祖松平頼重公に仕えた矢延平六 (矢野部平六、矢野部伝六、兵六とも書かれている)も、またため池築造に生涯をささげた1人である。矢延平六。慶長15年(1610年)生まれ。名は叶次、晩年は可次と改めた。 通称平六、のちには庄兵衛と呼ばれている。寛永19年(1642年) 頼重公とともに 讃岐へ。平六を祭神とする綾歌町富熊の飛渡神社に建つ石碑には、次のように記されている。「叶次高松藩主松平頼重ニ仕へ水利ニ功アリー寛永19年頼重此ノ地ニ封セラ レルヤ、大イニ池溝ノ役ヲ興シ、叶次ヲ挙ケテ任ニ当ラシム、叶次拮据経営40余年、東ハ大内郡ヨリ西ハ那珂郡ニ至リ, 工ヲ起コスコト 100余所ニ上ル」「松平家登仕録」 の矢延平六の項によると、寛文4年(1664年) 以前は軽い身分の代官手代であったが、同年12月12日、米3石を加増、同8年には12石2 人扶持を給せられ、郷方手代に昇進した。 しかし、経費節約で人員整理の時、60歳を過ぎていたので、願いにより退職。ところが、2代目藩主頼常の延宝7 年(1679年)に郷方井川の普請など巧みな者だからと郡奉行が再び採用を申し出たところ、重宝の者であれば召しかかえてもよかろうと用いられた。郡奉行預となり、切米13石2人扶持を給せられたが、以後の成り行きは明らかではな いと記されている。さて、彼が築造に関係したと考えられる池は、香川町の新池、飯山町の仁池、楠見池、牟礼町の王墓池など100余に上ったというが、その名は明確でない。思うに、大規模なものは少なく、小さい池が多かったため、記録や言い伝えを失ったためだろう。だが、頼重公の時代、406 の池が築かれ、旧有のものと合わせると 1,372 になったという。406のうち、多くは平六が関係したというから、功績は偉大というべきである。池普請のほかにも、彼は正保元年(1644年) 旧高松藩の水道施設工事に関係。 元和2年(1682年) 旧岡田村の滝の鼻用水路も、 彼の手によると考えられている。だが、彼の功績に対する中傷もあったようである。 新池には、こんな伝説がある。新池の築造は、農民たちに大きな喜びを与えた。が、平六がこの池を築いたのは 「高松城を水攻めするため」と藩主に告げ口するものがあり、このため、平六は裸馬に乗せられ、阿波へ追放されてしまった。平六を慕う農民たちはその行方を求めたが、捜し出すことはできず、せめてその恩に報い、後世に伝えようと新池を見おろす高塚山頂に池宮神社を建て、 平六をまつったという。 そ して、平六が追放された旧8月3日には、純農村的なひょうげまつりが、いまに行われている.また、仁池にも同じような話がある。 すなわち、必要以上に規模を大きくしたのは藩費の浪費であると、やはり平六は阿波へ追放されている。だが、ここでは再び讃岐に呼び返され、扶持も加増になって使われたと伝えられている。ともあれ、晩年は富熊村 (綾歌町)に住み、池普請に生涯をささげたようで ある。55歳にして独身の平六は、弟平次を養子とし、そののち初めて結婚、太郎右衛門を生んだ。74歳の時、病に倒れ、2年後の貞享2年(1685年)10月1 日死去。平六の死後13年目の元禄10年(1698※年) 富熊の農民たちは平六の徳を慕って飛渡神社を建立。 干ばつの年に雨を祈ると霊験あらたかと、いまも毎年10月にはおまつりが行われ、徳をたたえている。※記述の正誤元禄十年(1968年)×元禄十年(1967年)○讃岐のため池著者四国新聞社編集局香川清美長町博佐戸政直昭和50年発行美巧社