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中高年の生涯学習

2018.07.15
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大森貝塚遺跡庭園、巨大な遺物オブジェと噴水を使った霧で幻想的
雰囲気の中の深鉢を見るモース博士像

​東海道線や京浜東北線で、東京方面に向かって大森駅を出ると左に大森貝墟碑が見える。有名な碑と思うが、忙しい日常では、そのまま忘れがちである。大森駅で降りたついでに、寄り道してみた。西口で降りて大井町方面へ歩いて10分。「大森貝墟碑入口」の案内板が立っている。NTTのビルの横の細い道を入って、階段を下っていくと、壁に説明書きがはられている。車いすの方は、NTTビル内のエレベータを使って下れるようだ。電車から見える碑が立っているが、他は何もない。わざわざ来るようなところではない。「貝墟」とは何か。「貝塚」と違うのか。どんな遺物が出てきたのか。さっぱりわからないと見事に裏切られる。
​ところが案内板がないが、この先10分くらい歩くと、びっくりするような立派な「大森貝塚遺跡庭園」が現れる。ここは区またがりになっており、大田区と品川区の境界なのだ。「貝墟」の方は大田区で、「庭園」は品川区なのだ。庭園から、さらに5分くらい歩くと品川歴史館という施設があり、ここに大森貝塚の展示がある。しかしここの展示は貧弱で、子供の学習施設という感じである。過去の特別展で「大森貝塚」をテーマにしたことがあったようで、解説図版を格安で売っていたので入手してきた。「日本考古学は品川から始まった」と題する、この図版は、大森貝塚の発掘、発掘品、発掘後の歴史、東京都内の貝塚の現況等、「歴史館」の名に恥じない資料である。本来なら、この図版の内容を展示できれば専門博物館になるはずだが、学芸員の歯ぎしりが聞こえるようだ。
先の遺跡庭園の線路側に「大森貝塚碑」が立っており、モースが掘った場所は、実はここだ、ここは品川区大井で、本来なら「大井貝塚」という名前で歴史にとどめるべき所である、と主張したいようである。では、なぜ「大森貝塚」になってしまったか。

​大田区立郷土博物館発行の「私たちのモース」では、大森貝塚発見者のエドワード・シルベスター・モースその人に焦点を当てて紹介している。モースが日本に旅立ったのは1877年(明治10年)5月18日のことだった。モースは1838年(天保9)6月18日、メイン州ポートランドに生まれた。21歳の1859年、ハーバード大学の動物学者ルイ・アガシー教授の学生助手となった。24歳の時、腕足類の関する、初めての論文を書き、発表した。腕足類とは二枚の貝殻をもつ、小さな海産動物でシャミセンガイやホウズキガイの仲間であり、進化論との関わりで、6億年前の古生代から形態の変化が見られないことなどが注目されていた。モースは貝塚の発掘なども経験していた。
​モースがアガシー教授の下に来た1859年、イギリスで画期的な書物が発行された。ダーウィンの「種の起源」である。すべての生物は進化するという進化論という学説は、キリスト教を信じてた当時の人にとって受け入れられないものであった。生物は神が創造したもので不変なものであるという真理に反すると論争が起こった。ダーウィンの立場を支持する多くの学者の中で、アガシー教授は反対の立場だった。アガシーはカルヴィン牧師の息子であり、聖書の言葉を否定できなかった。モースは尊敬するアガシー教授を支持した。しかし教授の下で研究していた学生の宿舎の管理のトラブルでアガシーの裁定に不信感をもったモースは、アガシーの下を去った。アガシーの下で一緒に研究していたパットナムからピーボーディ科学アカデミーの博物館開設準備に参加するよう誘われた。「アメリカン・ナチュラリスト」という雑誌の刊行という仕事も加わった。
​モースは腕足類の研究を進めると進化論を肯定せざるを得ない事実に遭遇する。モースは話術に秀でており、講演料だけで年間5000ドルも稼げるほどになっていた。またモースは両手を同時に使って絵や文字が書ける特技も持っていた。モースは日本に腕足類が30種以上いるという情報をつかんだ。日本については何も知らなかったが、腕足類オタクは、そんなことはどうでもいい。何とか日本へ行きたいと思った。しかし金がなかった。1875年、モース初めての著書「動物学初歩」は一般向けの本で、身近な動物を素材に、自然を学べる工夫がされており、版を重ねるほど売れた。少し借金をして日本へ行くことができる資金を作ることができた。
1877年(明治10)5月29日、サンフランシスコから船で日本に向かったモースは6月17日の深夜、横浜港に上陸する。翌日、横浜市内見物に出かけた。どこを見たか。それはモースの滞在日記「日本その日その日」(東洋文庫、講談社学術文庫)にくわしい。

​6月19日、文部省学監ダヴィット・マレーに会うため、東京(新橋)に向かった。当時、外国人が自由に歩けるのが、居留地から10里以内と決められていた。腕足類収集のための便宜を図ったもらうつもりだった。横浜(今の桜木町)から神奈川、鶴見、川崎と停車し、その次が大森だった。大森を過ぎて、すぐに線路際に貝殻の堆積しているのを発見した。モースは、これは貝塚であることが分かった。腕足類探索のため、初めから貝塚がないか、目を凝らしていた。竹橋にあった文部省でマレーと会った。この席で、東京大学文学部の外山正一から、教授になってほしいと要請された。

外山はミシガン大学に留学している時、モースの進化論の公開講演を聞いていた。モースは外山のことは記憶になかった。アメリカでの講演の予定があったので、この一時帰国を許してもらうことを条件に、2年間の契約をおこなった。9月から授業がはじまった。再び大森を訪れたのは発見から3か月たっていた。動物学科助手の松村、学生の松浦、佐々木を連れて行った。東大の助手や学生でも、貝塚については知っていなかった。この日、シャベルや鶴嘴使用は許されなかったので、手で掘った。それでも多数の土器片や骨片を見つけた。
次に東京大学から東京府に発掘願が出され、本格的な発掘が行われた。その際、他の者の発掘を認めないよう要請された。当時、エドモンド・ナウマン(ドイツの地質学者、ナウマン象の命名)やハインリッヒ・フォン・シーボルト(通訳の仕事の傍ら遺跡の調査をしていた)らは大森貝塚について知っていた。彼らの仕事にストップをかけたのだ。

日本人は貝塚について、どういう認識だったか。和銅5年の「常陸風土記」に「巨人が岡の上に住み、海の貝を捨てて岡になった」と出ているようだ。とても科学的知見ではない。いまでも一般人の思いは貝塚を掘って何になるのか、発掘された木は1億年前のものという発表はウソ、どうしてそんなことがわかるのか、というところだ。

​モースは大森貝塚でどんなものを発掘したか。出土品は計261点、その内訳は、土器214、土版6、骨角器23、石器9。縄文時代後期、炭素14年代測定で今から3000~3500年前と考えられた。大森駅ホームに「日本考古学発祥の地」という碑が立っている。この碑の上の深鉢型土器が発掘されたものだ。3000年前の日本人の生活がどのようなものだったか、まさにタイムカプセル状態で保存されているのが貝塚である。駅のホームにある深鉢型土器をじっくり見れば、これはアートであると感じるだろう。美術館ではなく、駅のホームにあることが縄文人のアートをみるのにふさわしい。
モースは来日してから1883年に帰国するまで、3回、日本とアメリカを往復している。実質滞在期間は1年9か月だったが、日本、日本文化に強烈な興味を抱く。腕足類などどうでもよくなってしまった。「日本その日その日」には大量のスケッチが掲載されている。黒板の五線譜に音符を書き入れる和服の子供、宿舎の加賀屋敷五番館、江ノ島の臨海実験場、女性の髷(まげ、当時の流行か)、謡をならう自分(モース)、人力車、神戸で見た和船、おはぐろをする女性、茶碗、陶器の鑑定会。ここには明治時代初期の日本文化が貝塚のように保存されている。

モースは1926年(大正14)12月20日、セーラムの自宅で死去。87歳だった。1929年、モースを追悼しようという動きが出てくるが、50年~60年経つと、モースが掘った場所がどこか、はっきりしなくなった。「大森貝塚」碑は大阪毎日新聞社社長本山彦一の発起により、1929年、現遺跡庭園に立った。一方、「貝墟」碑は1930年、モースとともに発掘した佐々木忠次郎の話から、この場所(現NTTビル脇)に立てることが決められた。また、この場所には「大森貝塚之跡」という東京府史跡の標柱が立っていた。学会の錚々たるメンバーが発起人になっており、「貝墟」碑の否定はできない状況になっていた。
東京帝国大学の副手の甲野勇はペンネームを使い、地形の比較、様々な調査報告を検証することで、大井町の「貝塚」碑周辺がモースの発掘した場所であることを論証した。

1941年(昭和16)慶応義塾大学の大山柏、1984年(昭和59)、品川区による遺跡公園整備のための発掘でも「貝塚」碑がモース発掘の地点であると検証された。この時、新たな出土品も出てきた。公園内に「貝層剥ぎ取り標本」が公開展示されている。

さらに、大森貝塚を掘ってみたい方は、
1 岩波文庫に、モース著「大森貝塚、付関連資料」が出ている。これは発掘報告書、宣伝文句は「観察と実験に徹する科学精神をみごとに体現したもの」と打ち出している。世界の貝塚との比較のなかで大森貝塚の特徴が述べられている。研究報告なので、小説のようには読めないことを覚悟して。

2 現地訪問。東京周辺の方は比較的楽に訪問できる。大森駅ホーム上の深鉢土器も忘れない事。(ルートは、この本文の流れで)

3 アメリカ・セーラムの「ピーボディ博物館」。港町セーラムは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州、ボストンの北東、ボストンから電車で30分。ウェルドホールに日本・東洋の民俗資料の展示室がある。モースが持ち帰った資料もあるようだ。明治初期の日本人の生活が、保存されている。ここも一種の貝塚である。

4 岩波文庫「大森貝塚」の後半に、モースの発掘した資料が図版で紹介されている。これらの現物資料は東京大学総合研究資料館人類・先史部門に保存されているようだ。写真図版で満足できない方は、こちらへ。一般入場が可能かどうか(下記イベントがあるかどうかも)は電話で確認してから、お出かけください。(場所はネットで検索ください)

東京大学総合研究資料館
ギャラリートーク
参加希望者は開始時間までに1階展示場に集合ください。
11月11日(土)11:00-12:00 
 佐宗亜衣子 
 モースと大森貝塚出土人骨






最終更新日  2018.07.15 13:33:57
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