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中高年の生涯学習

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2017.05.28
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俳人で日本障害者協議会顧問の花田春兆さんが5月13日、肺炎で都内の病院で亡くなった。大正14年10月、大阪で生まれた。91歳だった。脳性まひのため、ほとんど歩くことができなかった。重度障害者で、これほどの充実した人生を歩んだ人も稀だ。他の障害を持つ人にとっても人生を考えるモデルになった。モデルになったが、並みの人には真似のできない人生だろう。父親が大蔵省の官僚だった。裕福な家庭であったことは間違いない。日本の戦前は福祉という制度はまったくなかった時代といっていいだろう。お金持ちの家に生まれたと言っても障害を持っていたら厳しい人生を向き合わざるを得ない。それでも春兆さんは俳句に出会い、多くの著書を残した。自伝も何冊か書かれているので、その人生を第三者でもたどることができる。

本ブログでは春兆さんの俳句をとおしてその人生をたどってみる。句集も何冊か出ているが、俳句にプラスして随筆を合わせた「折れたクレヨン」(ぶどう社)が読みやすいので、これを利用する。ぶどう社は障害者問題専門の出版社である。社長であった市毛研一郎さんはすでに亡くなったが、娘さんが父の遺志を引き継いで出版活動を続けている。市毛さんは演劇志望で俳優座の舞台に立っていてもおかしくない好漢であった。なにを間違えたか神田村の一角で赤鉛筆をふるう仕事を始めた。春兆さんをすでに知っていたのだろう。会うとすぐ、評論集の本を書いてほしいと頼んだ。春兆さんは渋った。しばらくして「句集を」と市毛さんは迫ってきた。あやしい出版社と思ったか、「句集はもっとまともな出版社から出したい」ということで、自分の俳句を随筆という形式で解説するプランで市毛さんの要望に応えた。しかしこれも大変な自信である。自信というよりへそ曲がりである。このへそ曲がりに市毛さんは食いついた。句集にしてしまえば部数は限られてしまう。商業出版としては採算を考えるのは当然である。随筆が付け加われば販売部数は当然伸びるので、市毛さんとしては、してやったりというところであろう。序文に作家の水上勉さんや国文学者の久保田正文さんの文章も加えて、箔をつけることに成功した。朝日新聞の「天声人語」に取り上げられて勢いがついた。

俳句の舞台裏の解説という自解では面白くない。俳句から飛躍して別の随筆を加えるという課題はなかなかむずかしい。この難題にチャレンジした。こうすると春兆さんの人生の要点が見事に浮かび上がってくる構成になっている。人生の重要なところが俳句に表現されていたからである。
家族は東京麻布に越して家を建てた。大使館などがある高級住宅地である。仙台坂の途中である。この坂が車いすの春兆さんにとっては曲者になる。

第一の難関は学校である。当時は学校に通学できないとき、就学猶予という変な制度があった。「学校にこなくていいですよ」というお許しを行政は出してくれたのである。しかし実態は障害児は学校に来るなという拒否の制度だった。教育委員会の怠慢を子供に転化した悪辣な制度だった。官僚である父親も戦えなかった。母が役所への書類を書いている。その後姿を見ながらクレヨンで絵を描いていた。その時の自分を次のような俳句にした。

就学猶予クレヨンポキポキ折りて泣きし

涙を流しながら社会への抗議だった。クレヨンが犠牲になった。俳句の定型を破っている。俳句に収まり切れない思いがある。学校へ行きたい。全国には、こんな思いで拒否された障害児が多くいた。のちに春兆さんが始めた「しののめ」という同人誌には独学で学習を極めた多くの猛者が集まってきた。
学校に行けなくなって、言葉をどう学習したか。

いろは積木でおぼえし文字よちるさくら

新学期、一緒に遊んでいた兄や近所の子供は学校へ行ってしまった。昼間のさびしさ。桜の花がちるさびしさ。不就学となった子供の学習ツールは積み木、かるた、メンコであった。「さくらはちった」が僕は散らないよ、という言外の思いも込められている。

劣等感湧く日よ蝌蚪(かと)ともなりたき日よ

「私のように社会的に揉まれていない障害者の多くは、自分を大づかみにでも評することができない」。こういう風に自分を客観的につかまえることができるのは俳句的思考だろう。宇宙は自分を中心に回っていると思う一方、宇宙のなかのゴミとも思ってしまう。そういう劣等感が湧いた日は身の置きどころがなくなる。穴があったら…。俳句をやると、ここで蝌蚪(かと)という言葉をもってきてやり過ごすことができる。蝌蚪とはオタマジャクシのこと。

幸運なことに仙台坂の下に日本で最初の肢体不自由児学校ができて、そこに入学できた。「ウワちゃん」というお手伝いさんが通学を助けた。乳母車で通学した。悪ガキや周囲の目に苦しめられた。

子ら囃す炎昼(えんちゅう)下校の乳母車

俳句はいじめっ子をにらめ返すことができる。
お手伝いさんに背負われて鎌倉吟行をおこなった。東慶寺にぜひ行きたかった。東慶寺は縁切寺といわれ、江戸時代、女性はここに逃げ込めば離婚が認められた。石段のそばの蕗の薹(ふきのとう)が目についた。そこで句ができた。春兆さんは東慶寺を女寺(おんなでら)と色っぽく表現して、

蕗の薹階も小幅に女寺

階は「きざはし」とも読むが、ここでは「かい」と読むのだろう。石段の高さのことと春兆さんは解説しているが、春兆さんは背負われていて、実測したわけではない。ここでは文学的真といったもので、だれも気づかない石段の配慮に注目して「小幅(こはば)」と表現したのだろう。石段の間口であろうが、高さであろうが、どちらでもいい。江戸時代でもハンディキャップを持つ人(夫の暴力から逃れ、世間を否定しようとする女性)への配慮があったことの発見である。この句は俳人協会全国大会賞を得た。
春兆さんの俳句でもっとも勢いがあり、私の好きな句は、

雲雀沖天不具なるも俯向くこと欲せず

「ひばりちゅうてん(7音)ふぐなるも(5音)うつむくことほっせず(10音)」。5・7・5に収まらない破調である。「沖天」は空高く飛ぶこと。俳句という定型を打ち破っていく姿勢に春兆さんは自分の人生を見たのだろう。障害があってもイケイケどんどんだ。自己表現を自伝、障害俳人の評伝へと広げ、そして障害者運動という政治分野に乗り出していく。
といっても、俳句を捨てたわけではない。外に出られない春兆さんに自宅へ押しかけての句会が開かれていたが、さらに高みを求めて、中村草田男に師事、草田男主宰の『萬緑』に飛び込んでいく。草田男は俳句界ではトップの俳人で、人間探求派の旗手といわれる大御所である。『萬緑』は錚々たるサムライが集まっており、俳句もさることながら、俳句を論じることも一流の人が集まっている。プロ集団に飛び込んだ。俯いていない春兆さんがいる。

回覧雑誌から始めた「しののめ」は印刷化され、全国から集まってくる原稿で100ページ以上になる大型の文芸同人誌に発展していた。詩、俳句、短歌、小説、随筆。なんでも掲載した。自慰文芸も現れた。春兆さんはボツにしなかった。ともかく書くこと、表現することが最重要と考えたのだろう。中から自分で障害者運動を起こすもの、独自の文芸サークルを作るもの、翻訳でめしの種にするものが自立していった。一方、人生に絶望して自殺する人も出てきた。障害をもって生きることの苦しさ、金がない、仕事がない、仕事をみつけたが上手くいかない、親兄弟から爪はじきされる、結婚ができない。同人誌をつうじて人生の修羅場を見てきた。なんとかしなきゃーという思いが春兆さんを障害者運動に駆り立てる。81年の国際障害者年に多くの障害者団体があつまって国際障害者年日本推進協議会(現日本障害者協議会)が生まれた。春兆さんはここの副代表に選ばれた。イデオロギー的には右から左まで、運動の論客が集まり、情報交換から行政への政策提言まで日夜、熱い論議が交わされた。意見が対立しても春兆さんは「いやいや、むにゅむにゅ」と吸収してしまい、いつのまにか厚生労働省へ持っていってしまう。

ベターワイフが『萬緑』の同人から現れた。

透明の杖欲しかげろふ中歩まむ

詩は人生の杖。春兆さんにとって俳句がまさに「透明の杖」だった。身を支える目に見えない杖。野のなかの揺らめきの中を歩いている自分が幻の中に見えた。『萬緑』の裕子さんが、この句に唱和した。

かげろうに踏み入り透明の杖とならむ


この結婚はまさに事件だった。ジャーナリズムが飛びついた。重度障害者に健康な若い女性が嫁いだ。文学的事件だ。あとから分かったことだが、裕子さんの家系は水戸藩の国学を司った家で、学者や文人を輩出している。父から漢文の素読を受けていた。しかし周囲からはやっかみ、いわれのない悪口が噴出、思い苦しんだ。「莫大な財産ねらい」。結婚が風貌と懐を計算して実行されると思われる世間的判断からは「文学的事件」など理解されるはずはない。

家計は独立独歩とされたようで、裕子さんは慣れない保険外交員などしながら家計を支えようとした。このとき保険業界の障害者に対する差別的体質を知った。障害があると保険に入れない。生命保険では短命なものを入れたのでは儲からない。露骨なもうけ主義が染みついていた。交通事故の損害保険も同じ。徹底的な値踏みをされ、最終的に補償はゼロと鑑定されることが多い。

家計は自分たちで、とされたが、春兆さんの両親は大きな応援をした。敷地内に春兆さんの別宅を建て、「しののめ」の人たちが集える小部屋を作った。文学的に表現すれば「庵」である。夏の暑い季節は軽井沢の別荘を期間限定で貸してくれた。高原の景物は俳句作りに多くの素材を提供した。周囲には酷暑の東京を避けて活動する文人、詩人が多くいた。近くに堀辰雄の家もあった。

龍胆(りんどう)や跼(かが)めば遠嶺も草の丈

リンドウを見つけてかがみ込む、遠くの浅間山も周囲の草と同じ高さになる。近景(リンドウ)と遠景(遠嶺)の取り合わせ。俳句の批評ではテレビで見たものはダメで、あくまでも実景、実感を読むべきと注意される。近くの公園の樹木と東京タワーの取り合わせでは面白くない。軽井沢でなければ文学的雰囲気は演出できない。文学があるステータスのある人たちの特権になっている時代錯誤の思い込みにとらわれている。無粋だが、今ではWebカメラで各地の桜の蕾から開花、散るところまでインターネットの生中継を見ることができる。こういう文明の利器を文学がどれだけ取り込むことができるかを論じた方が生産的だ。春兆さんは、この別荘で俳句をたくさん作ることができた。

木歩忌の風かき消えし水の上

俳人・富田木歩(ぼっぽ)、大正12年関東大震災のとき、隅田川の土手で焼死した。9月1日、震災記念日である。慶応ボーイの新井声風は向島の貧民街で俳句を作っていた木歩を見出す。木歩は熱病のため足なえになっていた。春兆さんは、この身障俳人に猛烈な興味を起こす。「境涯俳句」の先人をみつけたのだ。俳句ではものに託して自己を表現する手法を教えられるが、ストレートに自分を表現してもいい。木歩に「わが肩に蜘蛛の糸はる秋の暮」という句がある。評論家の山本健吉は「現代俳句」で「鬼気迫る句」と評した。木歩はどんな生活をしていたか。春兆さんは文献のほかに関係者に会って話を聞くという試みをしている。浅草ロックの電気館で支配人をやっていた新井声風を見つけ出し、話を聞いている。歩けない木歩を背負って逃げた声風は向島の土手に木歩を置いてこざるをえなかった。火炎が迫っていた。映画では最後のクライマックスシーンだ。木歩伝の「鬼気の人」(こずえ)は春兆さんの最高傑作であろう。詩人の清水哲男さんのWEB歳時記「増殖する俳句歳時記」で次のように批評している。「実に心根の優しい書き方だった。良く言えば抑制の効いた文章に感心し、しかし一方でどこか物足りない感じがしたことを覚えている。たぶん「事実」の書き方に、優しい手心を加え過ぎたためではなかろうか。」貧困の実態、その中で俳句を作ることの意味に迫ってない、というきびしい批評だ。

この本には木歩の句が70句掲載されている。俳句界の啄木と評される木歩はほとんど埋もれた人物だ。これだけの資料を発掘しただけでも偉業だ。春兆さんが会いにこられたときの声風の驚きはすさまじいものがあったはずだ。自分が劫火のなかに置いてきた木歩が目の前に現れたのだ。

中島京子さんの直木賞受賞作「小さなおうち」という小説がある(文春文庫)。山田洋次監督によって映画化された。話の設定が花田家と似ている。東京の中流家庭の中の不倫がミステリアスに描かれる。お手伝いさんの視点で描かれるところが妙味である。息子が軽い小児まひ。花田家にはウワちゃんというお手伝いがいた。このウワちゃんを通して、「家政婦は見た」という手法で描いたら、こんな小説になるだろう。この小説の読みどころは戦前の昭和史が細かに描かれている点だ。中島京子さんは安岡章太郎の昭和史を読み込んだと講演で語っていた。平穏な日常が繰り返されていたが、ある日突然、あの北朝鮮のアナウンサーのような口調で「ハワイ真珠湾攻撃」のニュースが報じられた。戦時体制になり、人々は徴兵された。東京は火の海になり、戦争が終わった。最終章は語り手のお手伝いさんは亡くなっており、息子が親のお手伝いさんの手記をたどりなおす、という話だ。右傾化する現在の政治状況、社会状況が重ねあわされている。不倫ごっこをやってる場合でないのだが。知らぬ間に右翼ファシストが政治の実権をにぎり、言論の自由が消滅した昭和16年前後と重なる昨今である。中島さんは花田家をモデルとしたとは言っていない。誤解の無きよう。念のため。

写真は坂部明浩氏撮影のものを提供していただきました。坂部氏は昨年から入院していた春兆さんに付き添い、見守り、状況を関係者にメールで報告するという作業をされていました。川崎のドキュメント映画撮影会社が春兆さんのベットサイドにカメラを据え付けたというニュースも流れされました。新時代の、俳句、障害を包摂した「春兆ドキュメント」がまとめられることを期待します。

詩人の清水哲男さんはFM東京の朝の音楽番組でディスクジョッキーをされていた。魅惑的な声の持ち主。番組の中で始めた俳句紹介がその後の人生を決めた。俳句本を出し、Webで歳時記作りを本格化。
花田春兆さんの句も富田木歩の句も取り上げている。検索してみてください。俳句が現代詩であることが納得させられる。

本稿は2週間掲載、次回更新は6月11日の予定。
本文中記載以外の文献は「いくつになったら歩けるの」(ミネルヴァ書房)を参照した。





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最終更新日  2017.06.04 13:59:44
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