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平泉寺の美しいコケと伝説

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平泉寺の美しいコケと伝説 写真計12枚で紹介しています        平泉寺あれこれ
司馬遼太郎氏も絶賛、美しい境内のコケ養老元年(717)、泰澄大師が創建したと伝えられる平泉寺白山神社白山が関係する石川、富山、福井の3県が中心となり、世界遺産登録を目指す白山平泉寺は一大宗教都市を形成、中世の広大な境内約200ヘクタールは国の史跡豊かな経済力の証、僧侶住居跡から美術的価値の高い中国製・白磁観音像白山平泉寺の強力な宗教勢力、時の権力者の命運も左右写真10枚でみる平泉寺白山神社(旧境内含む)

司馬遼太郎氏も絶賛、美しい境内のコケ
苔が見ごろ、ふっくらと濃い緑色に 平泉寺のコケ

先日、コケの名所として知られる福井県勝山市の平泉寺白山神社(通称)に行ってきました。コケは日ごとにみずみずしさを増し、訪れる人の目を楽しませてくれます。境内は美しい緑のじゅうたんが敷き詰められているようです。美しいコケを見ながら、樹齢350年以上の杉の大木が立ち並ぶ境内で森林浴も楽しい。健康にいいといわれるフィトンチッドを思いっきり吸って心身ともにリフレッシュ。癒しのひとときを大切にしたいものです。

平泉寺白山神社のコケの美しさについて司馬遼太郎氏は、「十余年前、ここにきたとき、広い境内ぜんたいが冬ぶとんを敷きつめたようにぶあつい苔でおおわれていることに驚いた。苔の美しい季節であったからこそそう思ったのだが、京都の苔寺の苔など、この境内に広がる苔の規模と質から見れば、笑止なほどであった」と、著書・越前諸道「街道を行く」の中でこう絶賛しています。

養老元年(717)、泰澄大師が創建したと伝えられる平泉寺白山神社

コケのの名所で知られる平泉寺ですが、その歴史は古い。今から1300年ほど前の奈良時代、養老元年(717)に、日本名山の一つ、白山(標高2702メートル)を開山した泰澄(たいちょう)大師によって創建されたと伝えられています。一般的には「平泉寺白山神社」といい、単に「平泉寺」ともいわれています。古くは「平清水」、「白山社」などと称し、神仏習合が進む中で中世には「白山平泉寺」と呼ばれていましたが、明治政府により神仏分離されてからは「白山神社」が正式名称になったようです。

白山が関係する石川、富山、福井の3県が中心となり、世界遺産登録を目指す

最近、白山が関係する石川、富山、福井の3県が中心となり、世界遺産登録を目指す動きが活発化しているようです。

白山は、加賀国(石川県)、美濃(岐阜県)、越前国(福井県)の国境にそびえ、古くから神として崇められてきました。白山に登る道「白山禅定道(ぜんどうじょう)」、白山への登拝拠点「馬場(ばんば)」がそれぞれの国に造られましたが、白山平泉寺は越前馬場の中心として栄え、古代末期から中世後期にかけ、白山信仰の拠点(お寺)として北陸で最大規模の宗教勢力を誇っていたようです。ちなみに、加賀の登拝拠点は白山本宮(はくさんほんぐう)、美濃の登拝拠点は長滝寺(ながたきでら)で、3つのお寺を合わせて「白山3馬場(さんばんば)」といいます。

世界遺産への登録を目指す動きにはこのような背景がありますが、白山ブランドのPRなど、今後の取り組みが注目されそうです。

白山平泉寺は一大宗教都市を形成、中世の広大な境内約200ヘクタールは国の史跡

ところで、中世の白山平泉寺境内は「四至内」と呼ばれ、おおよそ一里四方(東西1.2キロメートル、南北1キロメートル)であったともいわれ、その頃の境内ほぼ全域(200ヘクタール)が国の史跡に指定されています。その範囲は、今の白山神社境内を中心に、北谷や南谷の坊院跡(僧侶の住居跡)、平泉寺小学校裏の平泉寺墓地、さらには周辺山上の砦跡を含み広範囲に及んでいます。白山平泉寺は応徳元年(1084年)には比叡山延暦寺(天台宗)の末寺となり、最盛期、室町時代の寺領は9万石・九万貫、十八社、三十六堂、六千の坊院(僧侶の住居)を備え、その頃は一大宗教都市を形成したようです

豊かな経済力の証、僧侶住居跡から美術的価値の高い中国製・白磁観音像

最近、平成元年から発掘調査が進められている南谷三千六百坊院と呼ばれる僧侶屋敷跡からは、中国・元代(1300年代)に中国・江西省の景徳鎮(けいとくちん)で作られたとみられる美術品的価値の高い白磁観音像も出土してますが、これについては、白山平泉寺の一僧侶が豊かな財力を背景に商人から購入したと考えられており、当時の白山平泉寺の経済力がかなり豊かであったとみられています。

白山平泉寺の旧境内200ヘクタールの発掘調査は平成元年から進められており、最近発掘された白磁観音像のほかにも、越前焼きの皿の破片や中国製の筆置きなど約10万点の出土品が確認されていますが、発掘調査が終了したエリアはまだ2ヘクタールにすぎず、今後の新たな発掘成果への期待が高まっているところです。

白山平泉寺の強力な宗教勢力、時の権力者の命運も左右

一方、強力な宗教勢力を背景に、白山平泉寺の動向はしばしば越前争乱の目となり、今の新田塚付近で起こった藤島の戦いで最期を遂げた(新田義貞あれこれ参照)とされる新田義貞、織田信長に敗れ一乗谷(甦る戦国城下町、朝倉遺跡参照)から大野に逃れて自殺したとされる朝倉義景など、時の権力者の命運をも左右したほどの大きな影響力を持っていたようです。このように一大宗教都市を誇った白山平泉寺も天正元年(1574)の一向一揆との戦いに敗れ、全山焼失。その後、豊臣、徳川の時代に再興が図られたものの、往時の隆盛を取り戻すまでには至らなかったようです。
写真10枚でみる平泉寺白山神社(旧境内含む)                     平泉寺あれこれ

平泉寺白山神社の境内入り口

白山平泉寺の境内入り口

樹齢350年以上の杉の大木が立ち並ぶ境内

樹齢350年以上の杉の大木が立ち並ぶ境内

義経ゆかりの白山平泉寺発祥の地「御手洗池(みたらしいけ)」

平泉寺白山神社の発祥地「御手洗池(みたらしいけ)」

平泉寺境内の古図

平泉寺白山神社の古図
義経が宿泊したという平泉寺の辻観音堂

源義経が宿泊したと伝えられる辻観音堂

平泉寺の辻観音堂に残る850年前の聖観音立像

辻観音堂に残る850年前のヒノキ一木丸彫聖観音立像

1795(寛政7)年に再建された本殿

寛政7年(1795)に再建された本殿

母屋と向拝をつなぐ繋虹梁(竜の丸彫)

母屋と向拝をつなぐ竜の丸彫りの繋虹梁

中世の石畳=南谷三千六百坊院跡

中世の石畳=南谷三千六百坊院跡

僧侶の住居跡入り口=南谷三千六百坊院跡

僧侶の住居跡入り口=南谷三千六百坊院跡


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