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ふるさと福井

福井城址に往時の面影偲ぶ

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福井城址に往時の面影偲ぶ
県都福井のシンボル福井城本丸跡は、JR福井駅から北西へ徒歩5分ぐらいのところにあります。戦前まで見られた古い城下町のたたずまいも、昭和20年(1945)の大空襲や23年(1948)の福井大地震など相次ぐ惨事でほとんどが失われ、今は石垣と天守台跡、堀などに、往時の福井城の面影を偲ぶことができます(福井城址の春福井城址の秋福井城址の冬のページ参照)。

関が原の戦いの論功行賞が福井藩の始まり

徳川家康は慶長5年(1600)12月、伏見城で関ケ原の戦いの論功行賞として結城秀康に越前68万石を与えた。これが福井藩の始まりです。

徳川家康から感謝の手紙

関が原の戦いでの秀康の手柄について=関ヶ原の戦いより3ヶ月前の慶長5年(1600)6月、徳川家康は、家康に反抗する上杉景勝を討つため会津へ向かったのですが、下野国(栃木県)小山に着いた頃、石田三成挙兵の知らせを受け、景勝を討つか、大阪へ引き返すか迷ったといわれる。結局、家康は秀康を小山に残して大阪へ。秀康は小山に本陣を置いて景勝をけん制、景勝は関ヶ原の戦いの後、家康に和を請うたという。家康はこのことを大変喜び、秀康に感謝の手紙を出したという。

加賀(石川県)100万石・前田氏の目付け役として、武勇にすぐれた結城秀康を越前に

この論功行賞については、家康に次ぐ実力を持っていたといわれる外様大名、加賀(石川県)100万石・前田氏の目付け役として、武勇にすぐれた秀康を越前に配したと考えられていますが、その警戒振りは、福井藩城下最北端に堅固な防衛拠点「加賀口御門」(福井藩に加賀口御門 の日記参照)を設けていたことからも、その警戒振りをうかがうことができます。

姫路城に匹敵する威容を誇っていた天守

結城秀康は慶長6年(1601)、越前に入国すると早速、北庄城(のちの福井城)の改築工事に取り掛かり、本丸は、かつての越前領主・柴田勝家が築いた北庄城本丸(足羽川北岸の柴田神社付近)より1千mほど北へ築城、しかし全体としては、勝家の北庄城を基盤に拡充・整備したようです。縄張(城郭の設計)は本丸を取り囲むように二の丸、三の丸、さらには二重に外郭を配した五重の環郭式城郭だったといわれ、68万石大藩の居城にふさわしい規模であったようです(全国屈指の城下町、初期福井藩の日記参照)。天守は姫路城にも匹敵する威容を誇っていたとも伝えられ、その天守台跡は、福井県庁の南正面にある御本城橋を渡って、県庁と県警本部の間を奥へ進んでいくと見えてきます。

私の好きな撮影ポイント一つ、御廊下橋付近

福井城址は、普段は福井県庁をはじめ近代的な建物に圧倒されてそれほど意識することはありません。しかし、その周辺を散策していると、石垣などにカメラをを向けてついシャッターを押したくなるような気分にさせられるところでもあります。

特に私の好きな撮影ポイントの一つ、福井城本丸跡御廊下橋付近には、忘れられない懐かしい思い出があります。それは30年ほど前、私が初めてカメラを買った時に全紙に引き伸ばすために撮ったモノクロの写真がこの橋だったのです。その頃はお堀に白鳥がいて今よりもっと風情があったような気がします。撮影したモノクロフイルムは、自宅6畳間に作った”臨時暗室”で現像、全紙に引き伸ばしてパネルにしましたが、その頃は時が過ぎるのも忘れてよく徹夜で作業したものです。

今はデジカメ一眼レフを使ってパソコンで簡単に写真を処理していますが、30年前の暗室作業にはデジカメ時代には味わえないような楽しさがあったような気がするのは私だけではないと思います。


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