2006/09/16(土)11:27
有名な藤島の戦い、義貞の最期
太平記、福井県歴史散歩などによると、暦応元年(1338)閏7月2日、南朝方の総大将・新田義貞は、北朝方の越前守護・斯波高経の息の根を止めるべく、全軍に総攻撃を命じた。灯明寺(現福井市灯明寺、白山神社の地)に集結した3万余騎を7手に分けて、足羽7城(和田、安居、波羅蜜、藤島、高木、黒龍、小黒丸の各城=諸説あり8月31日の日記参照)に対する向かい城をそれぞれ造りながら攻め入った。しかし、足羽7城の中でも、斯波方に寝返った平泉寺衆徒立て篭もる藤島城(現福井市藤島町、西超勝寺の地)の抵抗がことのほか強かったことから、義貞は、様子を探るため、わずか50騎の手勢を従えてあぜ道伝いに藤島城へ向かった。ところが、義貞方は灯明寺畷(新田義貞戦没伝説地=8月28日の日記参照)にさしかかった頃、黒丸城(小黒丸城ともいう)から藤島城へ救援に向かっていた斯波方の300の歩射部隊とばったり出遭ってしまった。すぐに引き上げるつもりで偵察に向かっていた義貞方は、射手が一人もなく、防御する盾も持っていなかったことから、泥田で絶対絶命のピンチを迎えた。家来は義貞を守るため、義貞の矢面に立ち塞がり、ただ、矢の的になって射られた。また、家来は義貞に目配せして退却を進めた。しかし、義貞は聞き入れないで「家来を死なせて私一人が逃れるのは、私の本心ではない」と言って敵の中へ攻めていった。ついには、義貞が乗っている馬は5本の矢を受けて倒れてしまった。義貞が起き上がろうとした時に、白羽の矢が一筋、眉間の真ん中に当たった。急所に痛手を負った義貞は「もはやこれまで」と太刀を抜いて自ら自害した。享年37歳、または38、39歳とも言われています。藤島の戦いは概ねこのような内容で伝えられています。