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朝倉遺跡あれこれ

2019年05月01日
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カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

”戦国城下町の賑わい”を寸劇などで再現する恒例のイベントが、一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)で開催されています。観光客からは「面白い」と拍手を浴びていました。今春は5月6日まで。

戦国城下町の賑わい再現の様子をYouTubeにアップ​しました。









最終更新日  2019年05月01日 10時51分28秒
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2012年05月05日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

国の特別史跡、朝倉氏遺跡は、2010年春から放映されたソフトバンクのテレビCMで知名度が高まり、来訪者が増えているものの、「福井県民の遺跡への関心がまだまだ低い」と、朝倉氏遺跡保存協会長・岸田清さんが日本経済新聞の記事の中で述べています。それが岸田会長の現在の悩みでもあるようです。

私も県民の一人ですが、私の場合は、福井県の歴史に関心を持っていたことから、朝倉氏遺跡に熱心に通い続けたことも。そして、同遺跡について、ブログを書いたり、サイトを作って動画で紹介してみたり。今振り返ると、広がりつつあったブログや動画を駆使してPRを無心によくやっていたものだと思う。しかし今は、いろんな人がブログや動画ブームに乗ってPRしているのではないでしょうか。

とはいえ、ブログや動画による福井県観光などの情報発信をやめたわけではないので、今後も機会をみて、ブログや動画サイトなどを使ってPRに務めたい、と考えています。

ところで、「YouTubeで ふるさと福井!」を新しく開設し、朝倉遺跡も動画で紹介しています。静寂なたたずまいの朝倉遺跡、ホーホケキョとウグイスのさえずりが響きわたり、咲き乱れる糸桜が幽玄の世界を醸し出す、そんな情景をイメージしながらこの動画を撮りました。中でも、一乗谷で­最多の石仏群が残る盛源寺で聞いたウグイスの鳴き声は、特に印象的です。

一方、「きてみれば柳さくらの花の園 都のけしきたちもをよばじ」-。天文4年(1535)の春、朝倉館の景色をみてこのような歌を詠んだのは、公家で京の都の多芸な文化人、富小路資直(とみのこうじすけなお)です。往時の一乗谷は京の都に­も勝るとも劣らない景観だったようです。

私が同遺跡の動画を撮っていたのも春ですが、当時は往時に思いを馳せながら、撮っていたんですよ。







最終更新日  2012年05月05日 16時10分43秒
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2008年04月29日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

 今春も糸桜が見ごろを迎えた頃、一乗谷朝倉遺跡へ行ってきました。私が訪れた日は天候に恵まれ多くの観光客で賑い、朝倉館跡前の広場などでは、友達連れで食事をしていたり、親子がボール遊びをしている光景が見られました。

 一方では、朝倉館跡から湯殿跡庭園に向かう途中など同遺跡のあちこちで、ホーホケキョとウグイスのさえずりが聞かれ、咲き乱れる糸桜の醸し出す幽玄の世界に趣を添えていました。中でも、一乗谷で最多の石仏群が残る盛源寺で聞いたウグイスの鳴き声は、特に印象深いものがありました。動画・朝倉遺跡、糸桜を観賞しながら往時の華やかな繁栄を偲ぶでは、下城戸から入り、朝倉館跡、南陽寺跡、湯殿跡庭園付近、諏訪館跡庭園、御所・安養寺跡、盛源寺などを紹介しています。

 「きてみれば柳さくらの花の園 都のけしきたちもをよばじ」

 天文4年(1535)の春、朝倉館の景色をみてこのような歌を詠んだのは、公家で京の都の多芸な文化人、富小路資直(とみのこうじすけなお)です。往時の一乗谷は京の都にも勝るとも劣らない景観だったようです。糸桜を見ながらその頃に思いを馳せると、華やかなよき時代が甦ってくるような思いも。

 「もろ共に月も忘るな糸桜年の緒長き契りと思はゞ」

 また、義景館跡から200m東北の山麓高台に立地する南陽寺跡は、朝倉義景が永禄11年(1598)の春、後の室町幕府将軍、足利義昭を招いて歌会を開いたところですが、この歌会で義昭はこのような歌を詠み、「糸桜が長く枝垂れるがごとく、契りが長きにわたると思うなら、一緒に月も忘れないでいてほしい」との思いを義景に伝えたようです。

 これに対し義景は「君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこきけふのことの葉」と詠み、義昭に和するように歌で答えたという。

 さらに、永禄10~11年(1567~68)にかけての9ヶ月間、足利義昭が滞在した場所として知られる御所跡などにも行ってきました。

甦る戦国城下町、朝倉遺跡

朝倉遺跡代表的庭園の晩秋

朝倉遺跡の秋

朝倉遺跡の春
 







最終更新日  2012年05月03日 13時04分30秒
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2007年05月03日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ
桜の時期は過ぎているのですが、写真20枚余を中心とした朝倉遺跡の桜の咲く頃のページを作りました。






最終更新日  2007年05月03日 22時29分06秒
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2007年04月22日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

南陽寺跡庭園 南陽寺跡の糸桜

朝倉氏最後の当主、第5代義景は、永禄11年(1568)の春、足利義秋(義昭)を南陽寺に招き、爛漫と咲き誇る糸桜の下で歌会を催したと伝えられ、君が代の 時にあひあう 糸桜 いともかしこき けふのことの葉 という和歌を詠んでさすらいの義秋(義昭)を慰めたという。

南陽寺は、朝倉一族により創建され、3代貞景が再興したと伝えられる尼寺です。その跡は義景館跡から200m東北の山麓高台にあり、そこに残る当時の遺構、南陽寺跡庭園は国の特別名勝に指定されています。同庭園も義景館跡庭園と同様に、足利義秋(義昭)の御成りに備えて急きょ造られたと考えられているようです。

同庭園は敷地の東南山裾に造られており、立石を中心とした石組は湯殿跡庭園に近いとも。一方では石の積み方が諏訪館跡庭園に酷似しているともいわれ、滝添石に挟まれた3段の滝石組など、全体として力強い石組に特徴があるようです。また、滝石組の付近が周辺の地面より高くなっており、水を引くのが難しいとみられることから、もともと庭池は枯池だったと考えられています。

昨年の秋、朝倉遺跡の秋を撮ったときに、南陽寺跡にも行こうと思っていたのですが、熊に注意という看板が出ていたので、糸桜の咲く春まで待つことにしました。写真は今年(2007)3月末に同遺跡へ行った時に撮ったものです。







最終更新日  2007年04月22日 21時49分11秒
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2007年04月15日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

カタクリの花

朝倉遺跡(朝倉遺跡のページ参照)で偶然に家内が見つけたカタクリの花です。湯殿跡庭園付近の土手に咲いていました。







最終更新日  2007年04月15日 21時47分46秒
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2007年04月11日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ
朝倉遺跡の春

「きてみれば柳さくらの花の園 都のけしきたちもをよばじ」

この歌を詠んだのは、天文4年(1535)の春、京の都から一乗谷に訪れた多芸な文化人で、公家の富小路資直(とみのこうじすけなお)です。資直は一乗谷の往来の賑やかさに驚くとともに、4代孝景が泉殿で宴を開いてもてなした座敷の荘厳さ、花の咲きそろった花壇などをみて、一乗谷の景観には京の都もとても及ばないと思ったという。

この前の日曜日に家内と朝倉遺跡(朝倉遺跡のページ参照)に行ってきました。桜が咲いた朝倉遺跡を見るために。行ってみると、これまでみたこともないような風情のある景色が広がっていました。あちこちで写真を撮る人が見られたのが印象的です。

桜は見頃を迎えたもの、散り始めていたもの、これから咲くものなど、開花状況はいろいろでしたが、越前の長い歴史の中で文化面ではひときわ光彩を放ったといわれる一乗谷文化の香りが当たり一面に漂っているような、そんな思いも。私もすばらしい景色に見とれて思うままにシャッターを押し続けました。この写真は近く、日記でも紹介したいと考えています。






最終更新日  2007年04月11日 22時35分42秒
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2007年03月17日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

「唐門」

国の特別史跡・朝倉遺跡(同遺跡のページ参照)から出土した遺物2343点が6月にも、正式に重要文化財に一括指定されることになったことから、福井県立一乗谷朝倉資料館ではこれを記念して、7月20日から9月9日までの日程で、特別展「技~出土遺物に見る中世工芸の世界~」を開く計画。

主な遺物としては、火縄銃の弾丸や中国製大皿、茶せんなどがあり、越前焼きも200点(
日本六古窯の一つ越前焼きの日記参照)もあるそうですが、同特別展では遺物2343点中から400点ほど展示されるという。







最終更新日  2007年03月17日 22時02分14秒
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2006年12月29日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

下城戸 城下町の防御施設「上城戸」
「下城戸」                   「上城戸」

戦国大名・朝倉氏の拠点、一乗谷城下町の中心となる城戸ノ内は、東西の山が最も迫まった所に築かれた下城戸と、そこから約1.7km上流に築かれた上城戸によって構成されています。両城戸は、近世城郭の外郭主要門に相当し、城主の館など城下町中枢部の防御を目的に櫓と一体に築かれていたようです。特に下城戸は、出入り口の両側に、重さ10tを超す
巨石が積み上げれられており、そこに立つと、戦国時代の気風が伝わってくるような思いがします。

下城戸は構造に大きな特色があります。「矩折」(かねおれ)状といって、外側から町の中が見通せないように造られています。土塁と濠に沿って西側へ向かうとまもなく山麓につきあたり、そこで南側(左折)へ曲がると、城戸口(出入り口)が見えますが、ここではさらに直角に東側に曲がって出入りする構造になっています。また、城戸口両側には、重さ10tを超す巨石が積み上げれられており、そこに立つと、戦国時代の気風が伝わってくるような思いも。城戸の内側は、広場ような空間になっています。下城戸土塁の基底部幅は12~19m、高さ約4m、現存長は道路により一部が削り取られているため38mです。土塁の外側には幅約10m、深さ3mの濠があり、この濠は、一乗谷川と直接つなっがっていると考えられています。

一方、上城戸は、城主館より南側の谷が最も狭まった所にあり、土塁は長さ約105m、幅約15~20m、高さ約5mで、東側山麓から一乗谷に達する規模で構築されています。土塁の外側には幅12m、深さ3mの濠が存在します。一乗谷に面した西側には、巨石を組んだ石垣があり、ここが出入り口(城戸口)と考えられています。また、この濠を掘削した時の廃土は、土塁構築に再利用していたともいわれています。







最終更新日  2006年12月29日 16時01分55秒
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2006年12月20日
カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

義景館跡の南方高台にある中の御殿跡は、義景の実母光徳院の館と伝えられています。北側は空濠、西側は急斜面、東側から南側にかけては崖の上にさらに土塁が築かれており、堅固な構えの屋敷に特徴があります。このため、当初は当主の館の一部であったとの見方もあるようです。

中の御殿跡庭園は、園池の広さが約平方70m、深さ約20cm、池の周囲には庭石が10個残っているものの、石組らしきものはみられないという。溝底と池底の高低差が小さいことから、滝を造ることが難しいとされ、平面的な平庭に近い林泉式庭園だったと考えられています。

中の御殿跡では、トイレとみられる石積が発掘されているようです。それも、尿が雨水と一緒に館の外へ流れ出る、水洗便所を想定させるようなものらしい。ただ、これらの石積については、ゴミ溜説など石積がトイレと言い切れない事例も若干あるため、トイレと断定するには至っていないようですが、今後の行方が注目されそうです。

晩秋に撮った朝倉遺跡の写真50枚をフリーページ(随時更新中)で紹介しています。これからは福井県ゆかりの新田義貞、 継体天皇に加えて朝倉遺跡のことも少しづつ日記で紹介していく考えです。また、朝倉遺跡のムービーも一新しました。朝倉遺跡は有名なのでご存知の方も多いと思うのですが、またお時間のある時にご覧頂ければ幸いです。







最終更新日  2012年05月03日 13時14分47秒
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