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ふるさと福井

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福井城址あれこれ

2008年04月06日
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カテゴリ:福井城址あれこれ

 福井城址の御廊下橋(おろうかばし)が往時の姿に復元されたので、久しぶりの家内とそこへ行ってきましたが、天候のいい日とあって多くの見物人で賑っていました。桜もとても綺麗でした。その様子は 動画・福井城址 春の風景 で紹介しています。

 復元・御廊下橋については2008年2月23日の日記で書いています。

 

 







最終更新日  2012年05月03日 12時46分38秒
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2008年02月23日
カテゴリ:福井城址あれこれ

福井城本丸跡 桜の咲く頃
写真は御廊下橋付近の従来の風景です。

 桜の名所としても知られ、例年開花する頃は、道行く人の目を楽しませてくれる福井城址(福井市大手)ですが、今春は、まもなく完成予定(2008年3月29日完成式)の往時の姿に復元された御廊下橋(おろうかばし)が、訪れる人の関心を集めそう。

 屋根と壁があり廊下のような形をしていたと考えられている往時の御廊下橋は、藩主の住まいがあった中央公園の県民会館付近(西三ノ丸)からお堀の内側の本丸までの途中にあって、藩主専用の通勤路として使われていたものです。福井県と福井市は築城400年を迎えたのを機に、福井城址の歴史的・文化的価値を高めるため、昨年(2007年8月)からその復元整備を進めていました。

 復元・御廊下橋またはその付近から、爛漫と咲き誇る桜を観賞しながら、往時の反映していた頃の福井を偲んではいかがでしょうか。復元・御廊下橋の近くの石垣(本丸北西隅)の上には、完成(1606年)してから大火で焼失(1669)するまでの60年余の間、姫路城にも匹敵する威容を誇っていたといわれる四重五階(天守台含め高さ約40m)の天守がそびえ、その頃がふるさと福井の最も輝いていた時代ともいわれています。

 大火で焼失した天守は、徳川幕府の方針で再建が許可されませんでした。その後、本丸の偉容を辛くも保ったのが巽(東南隅)、艮(西南隅)の両三重櫓と伝えられています。今、市民の間では、巽(東南隅)櫓を再建する声が高まっているとも聞きますが、天守再建が許可されなっかったという史実を踏まえると、天守跡は今のままにしておいて巽櫓を再建するほうが福井城址にふさわしいような気がします。

 福井城址はJR福井駅から北西へ徒歩5分ぐらいのところにあります。







最終更新日  2008年02月24日 07時35分31秒
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2007年03月20日
カテゴリ:福井城址あれこれ

国の名勝・養浩館庭園

福井城址本丸跡から約400m北側にある福井市郷土歴史博物館の隣には、福井藩主松平家の別邸だった養浩館庭園(国の名勝)があります。先日、福井市郷土歴史博物館とともに無料公開されたので家内と行って来ました。

この付近は福井城の外堀に沿ったところで、西隣には復元された舎人門(福井城の舎人門の日記参照)もあって、江戸時代の風情を楽しむことができます。

養浩館庭園は当初御泉水屋敷といわれ、重臣・永見右衛門の屋敷だったのですが、福井藩主3代忠昌の時代から松平家の別邸として使われていたようです。

泉水邸といわれるように、泉水が建物の縁側近くまで迫って、泉水全体が庭のようになっています。建物は昭和20年(1945)の福井戦災で焼失し、その後再建されましたが、池や築山などの配置は江戸中期の代表的庭園といわれ、今もその面影を伝えています。







最終更新日  2007年03月20日 21時20分54秒
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2007年03月10日
カテゴリ:福井城址あれこれ

中央公園の岡倉天心像 

写真は、中央公園(3月4日の日記参照の一角にある岡倉天心像です。東京美術学校の設立に貢献し、日本美術院の創設者としても知られ、近代日本美術における最大の貢献者のひとりといわれています。

また、天心が自ら英文で執筆した「The Book of Tea(茶の本)」をニューヨークで出版するなど、それらを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介したことは広く知られているところです。

福井藩士だった天心の父、岡倉覚右衛門は、横浜で貿易商「石川屋」を経営、そこでは藩特産品の生糸絹袖(きぬつむぎ)などを取り扱っていました。天心は横浜生まれですが、両親が福井県(越前)出身だったこともあり、福井県を心のふるさとしてこよなく愛したという。

ところで岡倉家の祖先は、戦国時代の越前支配者、朝倉氏(朝倉遺跡のページ参照)と伝えられています。これについては、天心が息子の一雄に語った話として一雄の回想記録に記述されているという。また、岡倉家は代々、福井城下のはずれにあった志比口筏町(福井市宝永1丁目付近)に居住していたようです。岡倉家の菩提寺は西超勝寺(福井市東藤島)です。







最終更新日  2007年03月11日 09時23分39秒
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2007年03月04日
カテゴリ:福井城址あれこれ

見頃を迎えた中央公園の梅

福井城址西側にある中央公園の梅の花が見頃を迎え、道行く人の目を楽しませています。中央公園は昭和23年(1948)の福井大震災後、都市計画に基づき造られたものです。四季折々の樹木が園内に植えられ、福井城址とともに市民の憩いの場となっています。







最終更新日  2007年03月04日 19時15分25秒
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2007年02月27日
カテゴリ:福井城址あれこれ

復元された福井城の舎人門(とねりもん) 復元された福井城の外堀

福井城址北方に立地する福井市郷土歴史博物館の北側には、江戸時代に設けられていた福井城の「舎人門(とねりもん)」や石垣、土居、堀が復元されています。

東西に流れる当時の堀は、西方は春山合同庁舎北側から南に折れて片町通り東側へと続き、東方は松ヶ枝公園(宝永1丁目)を南に折れて新川(荒川)と百間堀の合流地に続いていました。同博物館の建設に先立ち行われた発掘調査では、福井城北側外堀の一部である舎人門一帯の遺構が確認されたことから、同博物館の館外展示物として江戸時代末期の様子を復原したものです。無料で公開されています。

復元された舎人門の形式は、木造瓦葺の「高麗門(こうらいもん)」。福井城下各御門の写真や絵図を参考にして造られたようです。屋根瓦は遺構から出土した越前赤瓦を復原して葺いています。

ところで越前赤瓦は、日本六古窯の一つ「越前焼」の産地として知られる越前町平等が発祥地とされ、17世紀中頃には生産されていたようです。初期のものは福井城や金沢城の城郭建築にも使われ、耐寒性に優れていることから、次第に、東北、北海道の日本海側寒冷地にも普及していったと考えられています。高耐寒性のほか、紫がかった暗赤褐色の薄い釉がかかり独特の色調に特徴があるという。現代では作ることのできない幻の製法ともいわれています(金沢城、福井城に越前赤瓦の日記参照)。

ちなみに、同博物館が建つ敷地は江戸時代に武家屋敷地だったところで、同末期の頃は礒野さんと渋谷さんという武士の屋敷があったそうです。







最終更新日  2007年02月28日 09時58分57秒
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2007年02月22日
カテゴリ:福井城址あれこれ
江戸期の繁華街呉服町通り

江戸時代、福井城下最大の繁華街だった所、「呉服町通り」です。

この通りは当時の北国街道でもあり、南方は戦国時代以降架橋されていたという大橋「九十九橋」、北方は加賀からの攻撃に備えて造られたとされる防衛拠点「加賀口御門」に続く、道幅9mのメインストリートだった。道路を挟んで二百数十件の商家が並びそのうち五十軒余が呉服商だったという。

昭和期に入ると、現在の福井駅前に繁華街が移ったことから、次第に衰退、それでも江戸時代創業のお店などに往時の繁栄を偲ぶことができます。呉服町通りの西方には、東別院をはじめとする寺町があり、西の守りを固めていたようです。






最終更新日  2007年02月22日 19時26分11秒
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2007年02月16日
カテゴリ:福井城址あれこれ

越前町の小曽原(旧宮崎村)や平等(たいら=旧織田町)の丘陵地帯は、日本六古窯の一つ「越前焼」の産地として広く知られているところですが、この地域は越前焼だけでなく、いぶし瓦や石州瓦とともに江戸後期から明治期の3代瓦として名をはせた「越前赤瓦」の発祥地でもあったようです。17世紀中頃に生産された初期の越前赤瓦は、平等の丘陵斜面から窯跡とともに見つかっており、福井城跡や金沢城跡から出土した赤瓦の文様、焼き具合などがよく似ていることから、それらの城郭建築にも用いられたと考えられています。

越前赤瓦は、酸化鉄を多く含んだ越前土(鉄釉)を水と灰で薄めてハケで瓦に塗り、その頃は越前焼の焼き物と一緒に同じ窯で焼かれていたようです。耐寒性に優れ、紫がかった暗赤褐色の薄い釉がかかり独特の色調をおびているという。越前赤瓦の製法は現代では作ることのできない幻の製法ともいわれています。越前焼の産地で作られるようになった越前赤瓦は、江戸末期にかけて福井県内各地のほか、東北、北海道などの日本海側沿岸寒冷地にも普及していったと考えられています。鉄釉を水と灰で薄めて塗る製法は、江戸時代に入るとまもなく、他の焼き物産地から越前焼に導入され、ほぼ同じ頃に越前瓦にも応用されたようです。

越前焼の起源は、東海地方から越前町小曽原にやってきた陶工集団が、丘陵地に窯を造って生産を始めたのが始まり。その後、越前町平等の丘陵地に広がり、室町時代後期の頃には北陸最大の窯場に発展、この地域で焼かれたツボやカメ、スリ鉢などの越前焼は北海道から島根県までの日本海地域に運ばれていたようです。しかし、江戸中期の頃から生産量は減少、明治期を経て今日に至るのですが、この間、信楽や瀬戸など先進地の技術を取り入れながら、後継者の育成にも努めているところです。このような歴史の流れをみていると、日常雑器を中心とした越前焼が衰退する頃に越前赤瓦が発展していることから、城下町の建設、拡張ラッシュが続いたといわれる江戸時代に入った頃は、越前焼産地の産業転換の時期でもあったようにみえます。







最終更新日  2007年02月23日 09時24分24秒
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2007年02月13日
カテゴリ:福井城址あれこれ

福井城址御本城橋福井城址御本城橋
御本城橋西側                  御本城橋東側
明治初期の福井城大手門幕末に描かれた福井城の御本城橋
明治初期の御本城橋              幕末の御本城橋
案内板より                     案内板より

福井城址の御本城橋北詰(北側)は、福井城本丸御殿に通じる正門、大手門があったところです。







最終更新日  2007年02月13日 14時03分22秒
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2007年02月08日
カテゴリ:福井城址あれこれ

加賀口御門があった所 幕末に描かれた福井城「加賀口御門」
加賀口御門が置かれていた所           幕末に描かれた加賀口御門の外側
手前が御門内側             (福井城址案内板より)

福井藩城下の最北端には、加賀方面に通じる北国街道を遮断するように、堅固な防衛拠点「加賀口御門」(松本2丁目)が置かれていました。今は石碑が建っているだけですが、付近を流れる用水が当時の堀の名残をとどめています。これは百万石の外様大大名、加賀藩・前田氏からの攻撃に備えて造られたものです。加賀口御門は、この門を中心に東西に長く、西別院東方から神明中学校正門付近まで、堀と土居が築かれ、同御門外側の三方にも堀が巡らされていました。当時は、同御門付近だけでなく城下全体を堀と土居で囲うことを計画していたという。また付近には、西別院や興宗寺などが東西に並ぶ寺町が置かれ、それが城下北方の防衛も兼ねていたようです。







最終更新日  2007年02月08日 16時09分46秒
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