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ふるさと福井

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新田義貞あれこれ

2011年10月01日
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カテゴリ:新田義貞あれこれ

私どもが住んでいる新田塚の氏神さん、新田義貞公について、新田塚町の明新まちづくり委員会は最近編集・発行した本の中で、

「武士階級の支持を失い、腐敗した鎌倉幕府を打倒し、時の天皇、後醍醐帝の信任を得て、天皇親政の復活に貢献した新田義貞は、足利尊氏の裏切り行為にあって、故郷へ帰還することもできず、北陸越前の地で、その生涯を終わらずを得なかった悲劇の武将であることを知る住民は必ずしも多くはない」と指摘しています。

これをみていると、7~8年ほど前、福井市の歴史関係者が「(新田義貞の戦没地)新田塚は歴史的に重要な地域」と話していたことを思い出します。私が自ら学習したわずかの知識に加え、そのことを聞いたときから、私は新田義貞がこの地域の氏神さんであることをありがたく、より誇りに思うようになったものですが、上記の指摘された文章をみて、さらにその気持ちが強まったような思いです。

また同まちづくり委員会は発刊の意義について、「歴史上の偉大な人物とゆかりのある地域に住んでいることを知り、誇りと愛着を持つことは、ゆたかな地域社会をつくる上で大きな役割をなすものと考えた」と述べています。

私も日々の生活の中では、新田塚町だけでなく同周辺の歴史に思いを馳せることがたびたびありますが、地域の歴史を私なりに理解を深めていくことで心がより豊かになっているのでしょうか。特に1時間早朝スロージョギングしているときなどは、そのコースに新田義貞ゆかりの地があることから、その昔の時代にタイムスリップしたような思いで、そこを通りすぎているのかもしれませんね。

これは私にとって財産ともいえるものです。







最終更新日  2011年10月02日 13時19分05秒
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2008年03月26日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

 先日、私どもが住む地域(福井市新田塚)の氏神さん、新田義貞公の菩提所・称念寺(坂井市丸岡町)へ参拝に行ってきました。福井市街地から車で北へ30分ぐらいのところにあります。

 そこの境内にはとても綺麗な早春の花が見頃を迎えていました。その花は梅、サザンカ、スイセン、沈丁花です。そこに着くまでは早春の花が咲いているとは思っていなかっただけに、その花がより美しく見えたようです。その様子は「境内に咲く早春の花、新田義貞公墓所・称念寺」(ふるさと福井動画で巡る)で紹介しています。

 浪人中の明智光秀公が称念寺を訪ねたのが1562(永禄5)年、そして門前に寺小屋を建てて生活をしていたという。江戸時代に入ると、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられていますが、その頃も、称念寺またはその付近には、早春の花がいっぱい咲いていて、光秀夫妻が仲良く境内付近を散策する様子が目に浮かぶようです。

 足利・新田公の活躍の時代が描かれた軍記物語「太平記」によると、南朝方の新田義貞が1338年(暦応元年)7月2日、灯明寺畷(現福井市新田塚)の藤島の戦いで戦死した時、北朝方の斯波高経が義貞の遺骸をこの長崎称念寺に埋葬したと伝えられています。

  「境内に咲く早春の花、新田義貞公墓所・称念寺」(ふるさと福井動画で巡る)の後半に出てくるりっぱな唐門の奥に義貞のお墓があります。唐門の戸を明けて中に入ると、2.6m余の五輪石塔に圧倒されましたが、これは、福井藩主の松平宗矩が1837(天保8)年、義貞の500回忌にあたり、旧墓石を埋めてその上に建てたという。新田氏は徳川の祖先といわれていることから、福井藩主・松平家もこの菩提所をとても大切にしたようです。

 ところで称念寺の宗派、時宗(じしゅう)は、鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土教の一宗派です。新田義貞と時宗の関係は、義貞の故郷の群馬県に時宗の有力な道場があったことから、その縁で、義貞も時宗の陣僧を連れていたと伝えられています。義貞が越前で合戦していた頃、称念寺は越前の中心的な時宗の道場であったようです。ちなみに、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。







最終更新日  2012年05月03日 12時43分02秒
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2007年01月02日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

私が住んでいる地域の氏神さん、新田義貞公が祭られている藤島神社に初詣に行きました。今年の元旦は天候に恵まれ、行列ができるほど大勢の参拝客で賑わっていました。いつもの数倍の参拝客が訪れていたように思います。

藤島神社は福井市南西の足羽山中腹にあるのですが、「どうしてここにあるの」という声が聞かれるなど、不思議に思っている方も多いようです。というのは、藤島神社はもともと、新田義貞戦没伝承地の福井市新田塚にあったのですが、この地域は当時、水害が多かったことから、新田塚近くの牧の島へ、さらには同じ理由で現在の足羽山へ移った経緯があります。これらの移転は明治時代のことなので、この経緯を知らない方も多いようです。

私どもは例年通り、近くの新田神社(新田義貞戦没伝承地)に参拝してから藤島神社へ。昨年は有名な藤島の戦い、新田義貞の最期など、義貞の越前の攻防を日記で紹介しており、そのこともあって、今年は新田義貞公をより身近に感じながらお参りをしました。







最終更新日  2007年07月16日 16時38分26秒
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2006年11月16日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

新田義貞は、第56代清和天皇を祖とした一族・清和源氏の流れで、八幡太郎源義家の孫に当たる初代新田氏・源義重(新田義重)から数えて7代目の子孫です。源義重は新田荘(群馬県太田市)に住むようになってから新田氏を名乗り、義貞は新田氏の嫡男として生まれました。一方足利尊氏は、源義重(新田義重)の弟・源義康(足利義康)を初代足利氏とする同族ですが、家格でみると、新田氏(源義重)が長男で次男の足利氏(源義康)より家柄が高かったこともあって、鎌倉幕府において新田氏が足利氏より冷遇されたことに対し、義貞は不満を持っていたともいわれています。

このような中で、天皇と公家を中心とする建武の新政を目指す後醍醐天皇から、鎌倉幕府追討の綸旨を受けたのですが、義貞はこれを名誉挽回の絶好のチャンスと捉えて、元弘3年(1333)に挙兵を決意したようです。義貞33歳の時です。義貞は密かに朝廷の命を受けて突然挙兵し、鎌倉に攻め入ったともいわれています。そして激闘の末、鎌倉幕府を攻め滅ぼしました。一方足利尊氏はこの頃、京都の六波羅探題を攻め滅ぼしました。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を推進しました。しかし、足利尊氏が武家政治再興を企てて建武3年(1336)に南朝の後醍醐天皇を吉野(奈良県)に追い、別に北朝の光明(こうみよう)天皇を擁立したことから、約60年続く南北朝動乱の時代に突入しました。その後醍醐天皇は尊氏と講和する一方で、皇子を各地に下向させて反撃の拠点をつくる戦略を立てたと伝えられています。その一つとして新田軍勢は延元元年(1336)10月、南朝の後醍醐天皇の命を受けて、恒良(つねなが)親王と第一皇子の尊敬(たかなが)親王を奉じて越前に下向し、敦賀・気比神宮宮司の気比氏治らの出迎えを受けて金ヶ崎城に入城しました。

義貞が北国方面に下向することになったことについては、北国が新田一族の勢力圏だったことや、敦賀・気比神宮が早くから後醍醐天皇と深い関係をもっていたことが影響したと考えられています。このようなことから、義貞が北国経営を目指していたとの見方もあるようです。

そして敦賀・金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の新田義貞軍9月21日の日記参照)へと続きます。







最終更新日  2006年11月17日 07時39分31秒
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2006年09月21日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

 

南北朝時代、金ヶ崎城の本丸跡といわれている=金ヶ崎最高地

[写真説明]

「三方が海に囲まれた天然の要害地、金ヶ崎の最高地(海抜86m)で、南北朝時代の金ヶ崎城本丸跡といわれています。戦国時代の朝倉氏支城だった頃は、通称月見御殿とも呼ばれ、武将が月見をしたと伝えられています」


脚光浴びる金ヶ崎


敦賀の金ヶ崎は、NHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公、山内一豊が出世の第一歩を踏み出したところ2月22日の日記参照)といわれ、放映以来たくさんの観光客が訪れているそうですが、ここは南北朝時代だけでなく、戦国時代にも「金ヶ崎の戦い」があったところです。織田信長が朝倉氏の支城、金ヶ崎城を攻めた時、浅井・朝倉両軍に挟まれ窮地に陥るものの、お市の方が、小豆を入れ両端を紐で縛った袋を届けて挟み撃ちを知らせ、信長の窮地を救ったという伝説は、この金ヶ崎での出来事です。

灯明寺畷で戦没する2年ほど前、新田義貞、金ヶ崎城に入城

ところで、灯明寺畷(福井市新田塚)の藤島の戦い(8月29日の日記参照)で戦没した新田義貞ですが、その2年ほど前には、金ヶ崎城にいました。義貞は延元元年(1336)10月、南朝の後醍醐天皇の命を受けて、恒良(つねなが)親王と第一皇子の尊敬(たかなが)親王を奉じて越前に下り、敦賀・気比神宮宮司の気比氏治らの出迎えを受けて金ヶ崎城に入城しました。そこは義貞戦没伝承地から南へ約60キロのところにあります。

新田軍の越前下向、足利方の糧道ふさぐ狙い

新田義貞越前下向の狙いについて福井県の歴史散歩は、南朝方が湊川合戦(兵庫県)で足利尊氏に破れると、後醍醐天皇は南朝方の勢力回復を図るため、、敦賀津を拠点に日本海の制海権を握って、北陸山陰道から足利方への糧道をふさぐことを考えた。そして、延元元年(1336)、新天皇の恒良親王と、皇子の尊敬親王を奉じて、北国に勢力をもつ新田義貞ら一族武将1000騎を敦賀に下向させた、としています。

足利方の総攻撃受け、極限状態の中で金ヶ崎城落城

福井県の歴史散歩、敦賀市史などによると
金ヶ崎城に入城した義貞軍は、その後約半年間篭城、北朝方の足利軍と戦っていたのですが、翌二年3月6日に足利方の総攻撃を受け、遂に金ヶ崎城は落城しました。この戦いで尊良親王と、義貞の嫡子・新田義顕が自害したほか、将士300余名が亡くなり、恒良親王も逃げる途中捕らえられて京都へ送られました。

義貞、落城直前に杣山城へ外出、難逃れる

ただ義貞らは、金ヶ崎城落城1か月ほど前、兵糧を確保するため城を抜け出し、約20キロ北東にある杣山城(南越前町)に出かけていたことから、難を逃れました。杣山城に出かけたことについては、金ヶ崎城の四方が足利方の大軍に囲まれていたことから、杣山城から打って出て、後方から足利方を撹乱することを考えていたともいわれています。

金ヶ崎城落城後、体制を立て直した義貞軍は、、府中(越前市)を攻め落とし、北朝方の越前守護・斯波高経を足羽城(諸説あり8月31日の日記参照)に追い込みました。そして、義貞が戦没した藤島の戦い(8月29日の日記参照)へと続くのです。

恋心を”桜の小枝”に託す「花換祭」


例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」=金ヶ崎宮

金崎宮では、例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」(4月12日の日記参照)が行われ、大勢の花見客で賑います。金ヶ崎に関心のある方は、この頃に、金ヶ崎古戦場巡りを計画されてはいかがでしょうか







最終更新日  2006年09月26日 09時10分36秒
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2006年09月16日
テーマ:ニュース(76765)
カテゴリ:新田義貞あれこれ
新田義貞直筆古文書

新田義貞を祭神とする藤島神社には、義貞のものとされる国重文の兜9月12日の日記参照)が保管されています。このほかにも義貞直筆といわれる古文書が残っていますが、この古文書は、専門家が調査に訪れるなど関係者の高い関心を集めているそうです

藤島神社

現在の藤島神社は新田義貞戦没伝承地(福井市新田塚=8月28日の日記参照)から南西へ約5キロ、足羽山の中腹にあります。同神社によると、明治初年、後醍醐天皇への忠誠に対し神として祀る運動が起こり、明治9年(1876)、灯明寺畷(現福井市新田塚)付近に別格官幣社藤島神社が創建されました。その後水害に遭い、明治14年(1881)には隣村の牧の島へ。ここも水害が多いため、明治34年(1901)に足羽山の現在地に移りました。

同神社では、新田義貞が元弘3年(1333)5月、密かに朝廷の命を受けて鎌倉に攻め入り、遂に5月22日、執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼしたことから、この日を記念して毎年記念祭が行われています。また、新田義貞が戦死した閏7月2日が太陽暦の8月25日に当たることから、この日には例大祭が行われています。







最終更新日  2006年09月16日 17時30分28秒
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2006年09月12日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

新田義貞の兜(国重文)

新田義貞のものとされる兜(国重文)は、江戸時代の初期、灯明寺畷(福井市新田塚)の泥田で近くの農民が発見し、それを福井藩士の井原番右衛門が新田義貞のものと鑑定しました。鑑定結果は、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中を守護するという三十番の神号が沈刻してあったこと、暦応元年(1338)閏7月2日、兜が発見された付近で義貞が戦死(8月28日の日記参照)したと伝えられていること、などが決め手になったと伝えられています。この兜は現在、新田義貞を祭神とする藤島神社(福井市毛矢)に保管されています。


兜発見から鑑定までの経緯について、わが町の歴史・福井は

明暦2年(1656)、近くの農民、嘉兵衛が灯明寺畷の水田で古い兜を発見し、家に持ち帰った。嘉兵衛の老母はこれを日常の績笥(おごけ)として使っていたが、たまたま福井藩士の井原番右衛門が鷹帰りの帰途、嘉兵衛の家で休憩した時、この異常な績笥に注目し、これをゆずりうけて家に持ち帰った。そして、朝晩磨いていたところ、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中守護の三十番神号が沈刻してあることが分かった。番右衛門は、まさしくこれは名工・明珍の作で、しかも新田義貞の兜には三十番神号を刻んであったという伝承があることを想い起こし、暦応元年(1338)閏7月2日、この付近の戦いで戦死した義貞のものと鑑定した、などと概ねこのような内容で伝えています


新田義貞のこの兜について藤島神社の説明
「この兜は、灯明寺畷の水田中から明暦年間(1655~58)に発掘され、新田義貞所用として福井藩主松平家伝来した。四十二間筋兜で、筋間に宮中を守護するという三十番神の神号と眉庇に銀象眼で唐草文が施され、鉢裏に元応元年(1319)8月、相模国□□の刻印がある。鉄製銀象眼兜」







最終更新日  2006年09月16日 11時16分58秒
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2006年09月09日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

藤島城址(福井市藤島町、西超勝寺)

藤島の戦い(8月29日の日記参照)に出てくる藤島城は、灯明寺畷新田義貞戦没伝承地(8月28日の日記参照)から東へ7キロぐらいの所にありました。現在はその場所に、藤島城址(現福井市藤島町、西超勝寺)の石碑が建っています。義貞は、灯明寺(福井市灯明寺の白山神社の地)の本陣からあぜ道伝いに藤島城へ偵察に向かう途中、1キロ余り行ったところの同伝説地で戦没したと伝えられています。

藤島城、足羽7城の一つに数える説(諸説あり
8月31日の日記参照)

案内板によると、藤島城を南朝方の足羽7城の一つに数える説もある。現在、北側に残る土塁の一部のほかは、当時の面影をとどめないが、地籍図では北側、東側に土塁、堀があったことが認められる、などと伝えています。

藤島城に立て篭もった平泉寺衆徒、命がけの防衛

藤島城の様子について太平記は、平泉寺の衆徒の立て篭もる藤島城、意外にも浮き足立って、すぐにも落ちるように見えた。数万の寄せ手はこれを機に、向かい城造りをそのままにしておいて攻撃した。衆徒も敗色濃く見えるが、とても逃れられないと知ると、身命を捨てて攻撃を防いだ。官軍が櫓を落として攻め入ろうとすれば、衆徒は材木を転がして落とし、衆徒が橋を渡って打って出てくると、寄せての官軍は槍先を揃えて突き落とした。押しつ押されつの戦いに、日はすでに暮れた。この頃、大将義貞は、灯明寺の前に控えて負傷者の様子を見ていたが、藤島の戦いに不安を感じて、50騎の手勢を従えて藤島城へ様子をみに向かった、などと概ねこのような内容で伝えています。







最終更新日  2006年09月16日 11時23分30秒
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2006年09月04日
カテゴリ:新田義貞あれこれ
小黒丸城址(黒丸城址)

藤島の戦い(8月29日の日記参照)に出てくる北朝方の斯波高経の本拠地、黒丸城(小黒丸城)は、灯明寺畷新田義貞戦没伝承地(8月28日の日記参照)から北西へ5キロぐらいの所にありました。現在はその場所(福井市黒丸町)に小黒丸城址と刻まれた石碑が建っているだけですが、当時の黒丸城(小黒丸城)は、九頭竜、日野の二大川が合流する所にあり、海運交通の重要な拠点だったことから、石碑に刻まれた説明では、高経が築いた足羽7城(諸説あり=8月31日の日記参照)の中でも随一の堅固を誇っていたと伝えています。

斯波軍の巧妙な防衛策に対し、義貞軍大がかりな攻撃準備

太平記を要約すると
府中(越前市)での戦いに敗れた斯波高経は黒丸城(小黒丸城)に追い込まれた。新田義貞軍3万騎に対し斯波軍は300余騎にすぎない。そこで、義貞軍の攻撃に備え、高経は討死覚悟で城の防衛策を考えた。泥田に馬の足も立たないほどの水を入れ、路には落とし穴を作り、橋をはずして溝を深くし、その中に7つの城(砦)をこしらえた。敵が攻めてきた時は、互いに力を合わせて敵の後ろへ回り包囲して攻めるという巧妙な防衛策だった。一方、義貞軍は黒丸城(小黒丸城)を攻めるのに際して、堀や溝を埋めるために、埋め草3万余荷、3千帖もの盾を準備した、などと伝えられています。義貞軍は黒丸城(小黒丸城)攻撃に際し、かなり大がかりな準備をしていたようです。

急がれる黒丸城の遺構確定作業=識者の声

ただ、黒丸城(小黒丸城)の遺構は現状では確認されていません。これについて福井市史は「黒丸城(小黒丸城)は以後にも朝倉氏が居城し、一乗谷入場まで使用されたとされていることから、なんらかの遺構の痕跡を残していることは十分考えられ、それらの位置、範囲などを確定される作業が急がれる」としています。

戦国武将の朝倉氏、越前守護を機に、居城を黒丸から一乗谷へ

斯波高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になりましたが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています。そして、文明3年(1471)、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城(小黒丸城)から一乗谷へ。それから信長に滅ぼされるまでの5代103年間、一乗谷は朝倉氏の居城として、越前の政治、文化の中心として栄えました。一乗谷城下町跡(国の特別史跡・朝倉氏遺跡=日記のページ参照)は、新田義貞戦没伝説地から南東へ14キロぐらい。1971年(昭和46年)、国の特別史跡に指定され、現在も史跡公園として発掘・整備が進められています。







最終更新日  2006年09月16日 11時24分51秒
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2006年08月31日
カテゴリ:新田義貞あれこれ

新田義貞が最期を遂げた藤島の戦い(8月29日の日記参照)に出てくる足羽7城に、どの城(砦)が該当するかということについては、識者の間で見方が分かれており、今後の論議の行方が関係者の関心を集めそうです。

足羽7城について福井県の歴史散歩では、和田、安居、波羅蜜、藤島、高木、黒龍、小黒丸とし、斯波高経が拠った小黒丸城(黒丸城ともいう)を入れて7城としているのに対し、新田次郎の小説・新田義貞では、藤島城、北庄城、和田城、波羅蜜城、高木城、黒龍城、安居城を7城とし、小黒丸城(黒丸城ともいう)を含めていません。

一方、福井市史では「太平記にいわれる『足羽ノ城』が具体的に何を指すのか明らかでないが、北朝軍の斯波高経方の複数の城の総称であるらしい」としています。その上で、下記の通り、現市街地周辺に点在する従来からいわれてきた「足羽7城」とは違った独自の見方を示しています

具体的には
九頭竜川、足羽川、日野川とに挟まれた地続きの範囲一帯に存在した城を指すと考えられる。その西端最奥地に九頭竜川と日野川を天然の掘割と見立てて黒丸城(小黒丸城ともいう)が位置していたと考えられ、南北朝期以後に朝倉の拠点の一つにもなった北庄城が足羽川に接して南端にあり、北端には九頭竜川に接して勝虎城が位置し、これら三ヶ所を結ぶ範囲の要所々々を掘割で幾重にも区切りその中に曲輪を築いたと見られる。そして、それらのうち勝虎城や北庄城などの主要な曲輪が「7つの城」に相当するのではないか、そう解釈すれば黒丸城(小黒丸ともいう)攻めの前後の文脈は自然に理解される。

太平記の記述にはつじつまの合わない部分が多くあり、史料的価値の信頼性については議論もあるが、「7つの城」と記されており、「7ヵ所」に城をこしらえたとは書いていない。これは明らかに7つの城が波羅蜜、藤島城、江守城、安居城のように個別の城ではなく、別のひとまとまりの地域として記述していたことの傍証ではないか、などと述べています







最終更新日  2006年09月16日 11時26分07秒
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