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ふるさと福井

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継体天皇あれこれ

2007年06月10日
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カテゴリ:継体天皇あれこれ

北陸三大祭りの一つ、三国祭りが行われる坂井市三国町およびその周辺には、継体天皇にかかわる伝説が数多く残されています。そこで、三国祭りと古代の伝説のページを作ってみました







最終更新日  2007年06月10日 21時55分25秒
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2007年06月03日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

 振姫終焉の地、春江町姫王

坂井市春江町姫王にある春日神社は、継体天皇の母・振姫が亡くなったところと伝えられています。その頃この地にあった「童子之城」に住み、そこで亡くなったという。同神社の近くには碑が建てられ、「童子之城」にあった大石を「快我石」として、また穴があいた石を「馬つなぎ石」として守られています。

振姫は、越前三国の坂名井(坂井郡)に住み、評判の美人だったといわれ、彦主人王(ひこうしおう)に見初めれて近江国(滋賀県)に嫁いだのですが、男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)が生まれてまもなく亡くなってしまったことから、高向の宮(坂井市丸岡町)へ帰郷して男大迹王を養育したと伝えられています。

振姫は晩年、この地で生活していたのでしょうか。







最終更新日  2007年06月03日 21時34分33秒
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2007年05月27日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

 継体天皇が立ったと伝えられる石塚神社の岩座

今から1700年ほど前の弥生時代に発祥したと考えられている坂井市春江町の石塚神社には、継体天皇に関係した大きな岩が古くから拝石として保存されています。

この岩は、古代民衆の信仰を集めた岩座といわれており、岩座は神様の座席としてあがめられ、後には岩そのものが神様として祀られるようになったようです。説明文には昭和39年に国学院大学の大場教授により岩座と断定されたと書いてあります。

今から1500年ほど前、男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)が、そのころ大きな湖沼であった越前の平地の水を日本海に出そうと考えて九頭竜川の治水工事をしていた時、男大迹王自身がこの岩の上に立って働く庶民の指揮をとったと伝えられています。

石塚神社は、継体天皇の母・振姫の故郷(越の国大首長の偉大な支配力を参照)といわれている高向神社付近から西へ、車で30分ぐらいのところにあります。







最終更新日  2007年05月28日 06時56分20秒
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2007年02月23日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

足羽神社のシダレザクラ

継体天皇の創建と伝えられる越前地方最古の古社、足羽神社の境内には、樹齢約350年といわれている「シダレザクラ」(福井市指定天然記念物)があります。桜の名所として知られる足羽山公園の登り口にあり、桜の咲くころになると、ここにも多くの花見客が訪れます。

足羽神社は平安時代中期の延喜式神名帳に記載されている式社内で、主祭神は継体天皇と坐摩神(生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比伎神)です。男大迹王が創建したともいわれ、創建してまもなく、男大迹王が継体天皇として都に行くことになったことから、御生霊(自らの魂)をこの宮に合祀して、継体天皇の皇女・馬來田皇女(うまくだのひめみこ)に神事を託したと伝えられています。現在の馬來田宮司はそれから数えて第60代目という。

特に足羽神社は、鎌倉時代以降武家の崇敬が厚く、戦国時代の越前支配者・朝倉氏から社領の寄進を受けていたようです。また、江戸時代に入っても、福井藩主松平氏から厚く崇拝されていたといわれています。

ところで、足羽という郡名、福井という地名は、同神社の祭神である阿須波神や福井神に由来するともいわれています。







最終更新日  2007年02月23日 20時43分52秒
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2007年02月21日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

福井県鯖江市の堅牢で優美といわれる伝統的工芸品、越前漆器は、1500年余の歴史を誇り、男大迹王(後の継体天皇)とのかかわりが歴史の始まりと伝えられています。

伝説によると、継体天皇に即位する前、男大迹王(おおとのおう、おほどおう)と呼ばれていた頃、男大迹王が河和田の郷へ視察したおりに冠を壊してしまい、片山(鯖江市片山町)の漆塗り職人に修理を依頼、漆塗り職人はこれを修理するとともに、併せて黒塗りの「三ツ椀」(三つ重ねのお椀)を献上したのですが、男大迹王はそのできばえにとても感動し、その後、漆器作りを奨励したのが起源とされています。古い文献に残る記録としては、平安時代の延喜5年(905)の全国で漆を正税とする国名の中に越前の名がでているようです。

越前漆器が始まった頃は「片山塗」と呼ばれ、黒塗りで堅牢といわれる椀を中心に生産されていましたが、江戸末期の頃になると、京都から蒔絵技法、能登・輪島から沈金技法が導入され、優美な椀や膳などの生産地となり、越前漆器の名で全国に知られるようになったようです。特に旅館やレストランなどで使われる業務用樹脂製漆器は、全国の約8割を生産する日本一の生産地です。







最終更新日  2007年02月21日 14時06分05秒
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2007年02月18日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

手繰ヶ城山古墳からの眺望 手繰ヶ城山古墳(前方後円墳で手前が前方、奥が円墳)
手繰ヶ城山古墳からの眺望     手繰ヶ城山の前方後円墳
                                            (手前が前方、奥が
円墳)  

先日、越の国(福井県の敦賀より北、石川県、富山県、新潟県)を治めていた初代大首長墳とされる永平寺町の手繰ヶ城山古墳(前方後円墳・全長128m)に行ってきました。

国の史跡・手繰ヶ城山古墳は標高150mに立地、2代目大首長墳とされる北陸最大規模の六呂瀬山古墳1号墳(前方後円墳・全長140m)に次ぐ規模ですが、それだけでなく、越の国がヤマト政権に組み込まれ、広域圏を支配するようになった最初の古墳と考えられています。古墳は全面に川原石が葺いてあり、九頭竜川の石を手渡しで運んだとみられることから、地元には「手繰ヶ城伝説」が残っているようです。また、古墳の周りを囲むように3重の埴輪列がめぐっていたと考えられており、古墳の造営時期は4世紀中頃とみられています。

手繰ヶ城山古墳は、遊歩道が整備されており、円墳のいただきまで、第一駐車場から30分ぐらい、第二駐車場から15分ぐらいで行くことができます。そこからは、男大迹王(後の継体天皇)が治水・開発したと伝えられている福井平野、坂井平野をはじめ、九頭竜川や日本海、さらには六呂瀬山古墳群が展開する九頭竜川対岸(北側)の山々を遠くに望むことができます。六呂瀬山など山々の麓は、男大迹王(後の継体天皇)の母・振姫の郷里「高向の宮の跡」、男大迹王が大伴金村らと会見した所とされる「てんのう堂」があるところです。付近を眺めていると、越の国の大きさ、男大迹王(後の継体天皇)の絶大な支配力、偉大さが伝わってくるようです。

ちなみに、第二駐車場まで車で行けるようになっているのですが、舗装されていないところがあって、車の底が地面につかえるところがありますので、念のため。







最終更新日  2007年02月21日 00時06分41秒
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2007年02月03日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

日本名山の一つ、白山を水源とする越前(福井県)の九頭竜川、加賀(石川県)の手取川、美濃(岐阜県)の長良川・庄川の流域では、6世紀には白山信仰が生まれていたと考えられています。白山は加賀(石川県)、美濃(岐阜県)、越前(福井県)の国境にそびえ、平野部が広がるそれらの流域からは霊峰白山がよく見えるといわれていますが、5世紀半ばから6世紀に九頭竜川流域で活動していた男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)またはその子供らも、美しい白山に向かって祈り、神社らしき建物でも神にお祈りしていたような気がします。

男大迹王またはその子供らの時代には既に、神社のようなものがあったのではないでしようか。というのは、縄文時代の人々は、山などの自然のものには神が宿ると信じ、山に向かってお供えをしてお祈りをしたといい、弥生時代になると、山がよく見える所にある岩をその山に見立てて岩に祈るようになったという。やがて、岩の前に建物を建ててその中で神にお祈りするようになったといわれており、これが神社の始まりと考えられているからです。

ところで、自分たちの祖先たちを祀ることが盛んになったのは、奈良時代に入ってからと考えられています。この頃になると、祖先が同じ人の集団を「氏」、自分たちの祖先を「氏神」、自分たちのことを「氏人」とそれぞれ呼ばれていたようです。しかし今は氏、氏神の対象が変わっており、氏神とは地域神社の祭神をいっているようです。例えば私たちの氏神といえば藤島神社の新田義貞公(私たちが住む町は新田義貞ゆかりの地参照)ですし、もう少し大きくみれば、福井県ゆかりの偉大な継体天皇(私たちの住む町は継体天皇ゆかりの地参照)も、私たち地域の氏神といえるようです。

ちなみに、白山信仰については奈良時代の養老元年(717)になると、越前(福井県)麻生津生まれの泰澄が信仰の象徴として白山を開山したと伝えられています。泰澄は14歳の時から越知山(朝日町)で毎日修行、34歳の時には白山登山を決意したといい、さらに36歳の養老元年(717)には、大野の修行先で夢の中に白山の女神と思われる天女があらわれ、これをきっかけに、白山修行登山への思いが強まったといわれています。

一方、白山に関係する白山市(石川県)と郡上市(岐阜県)、勝山市(福井県)の3県3市が共同で文化庁に対し、白山への登拝拠点「白山の3馬場」と、頂上御霊峰への登山道「白山の3禅定道(ぜんじょうどう)」の世界文化遺産暫定リストへの登録申請書を提出した件は、継続審査となったようですが、今後の健闘を期待したいものです。







最終更新日  2007年02月05日 14時27分29秒
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2007年01月30日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

継体天皇の出自が日本最古の歴史書「古事記」では近江国(滋賀県)とされていますが、勅撰正史の歴史書「日本書記」では越前国(福井県)とされています。いずれが正しいのかわかりませんが、専門家の大勢が越前出自説を肯定しているようにみえますし、私も継体天皇を学習していくうちに、または坂井市丸岡町の継体天皇ゆかりの地に足を運ぶうちに次第にそう思うようになってきました。

というのは、坂井市丸岡町鳴鹿周辺の山々には、4世紀後半から6世紀前半の頃に越の国(敦賀東の福井、石川、富山、新潟の4県)を治めていたとされる初代から9代目の大首長の前方後円墳が連綿と続いており、丸岡町内にある継体天皇ゆかりの史跡からその大古墳群を眺めていると、越の国のスケールの大きさ、その国を治めた大首長の偉大な支配力が伝わってくるような気がするからです。さらにそれらの大首長墳が、継体天皇の母・振姫の祖先といわれる豪族、三尾氏一族の墓所と考えられていることも、その思いに拍車をかけました。

鳴鹿地区の九頭竜川南岸にある松岡古墳群(永平寺町)の手繰ヶ城山古墳(全長129m)には初代、同川北岸の六呂瀬山古墳群(坂井市丸岡町)の同1号墳(全長140m)には2代目、同3号墳(同90m)には3代目が埋葬されているようです。さらに北側の横山古墳群(坂井市・あわら市)は、6世紀前半の継体天皇の時期に隆盛をみせていることから、継体天皇に二人の妃を出したとされる豪族・三尾氏の墓所と考えられており、そこには8代目と9代目の大首長墳が埋葬されているとみられています。 

ところで、坂井市丸岡町鳴鹿周辺は、越の国の中心として栄えたところといわれています。ここから10分ほど北西へ車を走らせると「高向神社」(継体天皇の母の故郷の日記参照)が見えてきます。同神社境内には、振姫が男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)を養育したところといわれている「高向の宮跡」があります。正確には同神社200m北西後方あたりが同宮跡らしい。振姫は彦主人王に見初められて近江国へ嫁いだのですが、彦主人王は男大迹王が生まれてまもなく亡くなってしまったことから、男大迹王を連れて高向の宮へ帰郷したという。

「高向神社」からさらに車を北へ15分ほど走らせると、田んぼの中に「てんのう堂」(新しい門出日記参照)が見えてきます。ここは男大迹王が、軍隊を引き連れて天皇就任要請にやってきた大伴金村ら大和朝廷重臣と会見したところと伝えられています。男大迹王は家来を整然と従えて堂々と応対したという。また、その話が信用できないので、なかなかこの誘いにのらなかったのですが、その後訪れた使者、河内の馬飼頭「荒籠」(うまかいのおさあらこ)に熱心に説得されて新しい門出を決断、507年、年齢58歳の時に河内(大阪府)の樟葉宮(くすはのみや)で即位したといわれています。

昨年末と年明けに六呂瀬山古墳群に行って来ました。しかし、ここは登山道が整備されていないため、頂上にある六呂瀬山1号墳まで行くことができません。ただ19年度に、同古墳群登山道整備の着手が予定されていることから、1号墳頂上から、福井の穀倉地帯といわれる福井・坂井両平野、その奥に見える日本海を眺めながら、太古のロマンにひたれる日もそう遠くないようです。







最終更新日  2007年01月30日 11時34分51秒
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2007年01月19日
カテゴリ:継体天皇あれこれ
越前市など丹南地域の自治体と民間で組織する「こしの都千五百年プロジェクト実行委員会」(三田村紘二委員長)は、10月5~7日に、同プロジェクトのメーンイベントとして「こしの都千五百年大祭」を開催する計画。同大祭では、継体天皇ゆかりの伝統工芸を生かした献上品の制作、奉納祭、古代の暮らしの体験などの一大イベントが予定されているという。詳細は同事務局0778-29-1500まで。






最終更新日  2007年01月19日 17時22分00秒
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2007年01月14日
カテゴリ:継体天皇あれこれ

足羽山にある継体天皇の巨大な石像 
足羽山に立っている継体天皇の巨大石像

男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)が生まれた頃、5世紀中頃の古墳時代には、越前、若狭では、福井県の基幹産業の一つである繊維産業の歴史が既に始まっており、それが日本繊維産業史の中で最も古いと考えられているようです。4世紀後半から5世紀にかけて築かれたとされる福井市足羽山古墳群から数種類の絹織物が出土したことを根拠に、その頃には、越前で絹織物が織られていたとみられています。

旧丸岡町が描いた継体天皇のイラスト
男大迹王(後の継体天皇)の想像図=旧丸岡町教育委員会

足羽山古墳群から出土した絹織物については、大陸からの伝来品ではなく、越前で生産されたことが既に証明されているという。また、足羽山古墳群については、足羽神社の宮司、馬来田家の祖先が継体天皇の王女、馬来田皇女といわれ、その母親が、継体天皇の8~9人の妃の一人、広姫といわれていることから、馬来田皇女の一族ものではないかと考えられています。

一方、絹織物の起源については、弥生式時代後期の2~3世紀ごろ、大陸からの渡来人が越前、若狭に移住して織り始めたという説もあるようです。日本では部落国家の戦乱が起こり、30余りの小国連合体、邪馬台国の女王に卑弥呼を立てて戦乱を収めた頃です。いずれにしても、福井県繊維産業の古い歴史を改めて認識するとともに、基幹産業繊維に対し誇りを感じているところです。

継体天皇の母振姫の想像図=丸岡町教育委員会
継体天皇の母振姫の想像図=旧丸岡町教育委員会

ところで、男大迹王が幼い頃から、継体天皇に即位する前の57歳まで越前にいたと考えられていますが、男大迹王の母・振姫も越前で織られた絹織物を着ていたのでしょうか。また、婚姻関係で有力豪族との結びつきを強めて勢力を拡大したという男大迹王が、絹織物を戦略的に利用したことがあるかも知れません。そう思うと、継体天皇の伝説が福井県の繊維産業史にも結びつき、古代のロマンが一層広がってきます。

ちなみに、文献で福井県織物の記録がみられるのは「続日本書記」で、その記録には、元明天皇が奈良時代の和銅5年(712)に越前など20ヶ国に綾錦絹織物の生産を命じたことが記されており、さらに平安時代初期の延喜5年(905)には、越前、若狭、加賀など36ヶ国から絹帛を朝貢させたことが史実にあるようです(その後の歴史については福井県繊維産業史と県民性の日記参照)







最終更新日  2007年01月19日 10時53分21秒
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