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金沢で生まれた、元ハンセン病患者・浅井あいさんが、8月3日午前1時5分、呼吸不全のため永眠されました。享年85歳。
訃報を聞いたのは、亡くなられてから1~2日後だったと思います。総選挙の準備をしていたときでしたが、心にぽっかり大きな穴が開いた気持ちでした。 浅井あいさんとは直接お会いできないままの、永久の別れとなってしまいました。 浅井あいさんのことを身近に感じたのは、映画「熊笹の伝言」を昨年観たときです。「あたし、おばあちゃんと呼ばれたことが一度もないの」と話す浅井あいさんに、目の不自由な少年・吉田大基(ひろき)君が、「おばあちゃん」と話しかける場面に、私は涙をこらえることができませんでした。2004年4月11日の日記、ハンセン病回復者の方々を称える顕彰費 除幕式でのあいさつもご覧下さい。 今日開かれた「浅井あいさんを偲ぶ会」にはどうしても参加したかった。先立って行なわれた納骨式に参加できなかったのは残念でした。 「偲ぶ会」には、「熊笹の遺言」に出演されていた鈴木時治さん(右端)、谺雄二さん(左から3人目)も参加されていました。 浅井あいさんの証言テープを全員で聞きましたが、まるでそこに浅井あいさんがいるかのよう。2001年12月、浅井あいさんが、高等小学校の卒業証書を受け取りに金沢駅に降り立ったときに「お帰りなさい」と迎えた当時小学校6年生だった子どもたちは、いまや高校生。その高校生たち3人も参加しており、「浅井あいさんは今も私の心の中に生き続けています」とのあいさつも。最後に、「誰か故郷を想わざる」(作詞/西条八十、作曲/古賀政男)を全員で合唱。 最後に、会場で買った、後藤昭男写真集「浅井あい その日 その時」に掲載されている、浅井あいさんの文章「卒業証書」の一部を紹介します。 ―私たちは友人達に付き添われて平成13(2001)年12月24日午後2時、故郷の金沢についた。車から列車を2回乗り継いだ長い時間の後、ホッとして車椅子でプラットホームに降り立ったそのときである。突然「あいさんお帰りなさい」「あいさんおかえりなさい」と、少年少女の声が、私の周囲から一度に沸き上がった。驚いた私は「ありがとう、ありがとう」と子供たちにいくどもいくども頭を下げたが、少年少女たちのあいさつは止むこともなく、一人一人が持ってきた美しい花を私の胸に持たせ、握手までしてくれた。私が車椅子用のエレベーターで駅前に出たときも、どこからか走り出てきて温かい言葉をかけてくれた。 私が母と姉に見送られて、この金沢駅を発ったのは昭和11(1936)年で、それからすでに66年経ったが、この間いくどとなくこの駅に降り立ったことはあった。しかし、私を迎えに来てくれた人は無かった。(中略) 卒業証書は、私の肩より広いがっちりした額縁にすでに納められてあった。81歳の私の胸はただただ喜びに溢れていた。上半身でしっかり受け止め抱きしめたのである。そのとき私の胸に浮かんだのは、私がこの金沢市を去ったあと、両親が、私が身につけていた衣服、関係ある総てのものを裏庭で焼却し、私とともに亡きものとした、父母のそのときの顔である。私をこよなく愛し案じてくれた父が母がどんな思いで私が大事にしていたもの、瓢箪町小学校の卒業証書やその他の賞状や免状などを灰にしたのだろうか。立ち上がる煙に涙したであろう両親の顔が浮かんでくるのである。温かい多くの人々に囲まれながら、いま両親がありせばの涙が滴り落ちるのを止めることができなかった。 「おばあちゃん」「おかえりなさい」―この何気ない言葉が、どれほど浅井あいさんにはうれしかったことでしょう。 浅井さんありがとう。自分らしく生きること、絶対にあきらめない生き方を、私はあなたから学びました。 さようなら、浅井さん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月25日 14時27分26秒
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