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さろん-みやび2 脳性まひのまーちゃんとママの笑顔介護日記

さろん-みやび2 脳性まひのまーちゃんとママの笑顔介護日記

一番大変な時の介護状態

ヘルパーさんや看護士さんが派遣され軌道に乗った、2年後に私が子宮の病気とわかりまして手術する事になり、その日までたったの一ヶ月でした、
今考えるともっとほかの方で出来たのかも知れませんがその時はただ無我夢中で手術が出来る様な環境の支度をしていました。
母とまーちゃんを施設に預ける算段から私たちのもって行く物の算段までほとんど私が一人で用意しなければならなかったのです。父は一人で家に居ると言うし、「我が家の女たちは体が弱い!」と一人で嘆いていました。
今は介護保険がありますからケアーマネジャーさんが捜して下さるから良いのですがあの当時はまだまだ福祉の方が不十分で「家族の方が探して下さい」と言われました。
その半年後には私がストレスによるめまいで入院して10日して退院すると今度はまーちゃんが風邪から肺炎になり12日も入院生活を送ったのです。
その間にも母の施設からは母の様子が悪いと何度も呼び出しが掛かり遠い施設まで行っては頭を下げて交渉し母を預かってもらって居ました。
まだらに痴呆なっている事が一番に問題でした、昔は確りしていた人だったのでお見舞いに来る方には見栄を張って「私は病気ではないのに娘がここに入れた」と言ったそうです。
最後にはその施設で自殺未遂を2回も起こして病院へ入院をして、
退院が決まった段階で出されてましたのです。その後の施設は自宅から電車やバスを使っても往復2時間半~4時間も掛かるとんでもない所の施設へ入れられました。

母への感情
前の病院より転移する前に少し意識が戻った母とその時に初めて私たち母娘は
これまで話ができなかった事また私は自分のして見たかった事をいろいろと話す事が出来たのです。
子供の頃はきつくて私の話しを聞いて貰えなかった母でしたが娘の私が考えている事を良く聞いて下さって最期には「そうだったの、貴女はそう考えて居たの!」
と応えて考え深げな顔をしていたのを覚えています、そう母に言われて初めて自分自身を認められたと感じた瞬間でした。今考えますにもっと早くに分かり合っていられたらもっと素敵な介護が出来たのではと思って居ります。
それから二ヵ月後に亡くなりましたから私にとってはあの瞬間が大切な時間が思い出となり、母を思い出すたびに考える事があるのです、
「はたして私はまーちゃんの話を聞いているかしら?」と考える事があります。
母の亡くなってからの父はまるで別人の様になっていました、
最後には主人との考え方の違いから徐々に痴呆の様子が見られ、病院嫌いだった父は肺炎の熱でもうろうとなりながらも「家に居たい!」と言いましたが私ではもう見ていられないとの事で入院して3日後に亡くなりました。
その後の数年間は、私は介護をしていたせいで抜け殻状態でした。歯は抜けていくし、体はぼろほろでなにもやる気がしない、生きる気がないの毎日でした。
そうです、うつ病なっていたのです。病院へ行きたくとも行く気がしない。そんな時、支えになった事と言ったらまーちゃんの笑顔、ヘルパーさんたちの応援とご近所の方たちの声掛けでした。
この病気については今でも主人にはなかなか理解してもらえずに居ます、そんな時はまーちゃんが私たち夫婦の間に入ってくれるのです。それはそれで嬉しい瞬間でもあります
心の病気は見えないだけに理解してもらう事は難しいです。
今は周りの皆さんの支えで無理しなければなんとか淡々と穏やかな生活をしております


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