越谷市増森(ましもり)のやまたけちゃんのブログ

2021/02/06(土)16:41

湯島天満宮(湯島天神)(東京都文京区湯島)

歴史同好会(寺社仏閣巡り)(430)

【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】   ※ 公式HPより  湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。 明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。 元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。 菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。 延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。 菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。 やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。 そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。 撫で牛(手水舎横) ※ 合格甘酒   〈湯島天満宮(湯島天神):東京都文京区湯島3-30-1〉

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