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【見た日:2026年(令和8年)2月28日(土)】 ※ 公式HPより ここ岡本太郎記念館は、1996年、84歳で亡くなるまで、岡本太郎のアトリエ兼住居だった。1954年から40年以上彼が生活した空間である。 絵を描き、原稿を口述し、彫刻と格闘し、人と会い、万国博の太陽の塔をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所。 彼のエネルギーが今も満ち満ちている。 更に言えば、ここは戦前は青山高樹町三番地。 岡本一平・かの子・太郎の一家が永く暮らし、一家でヨーロッパへ旅立ったのもこの地からだ。旧居は戦災で焼失した。 戦後、友人の坂倉準三の設計でアトリエを建てた。 ル・コルビュジェの愛弟子だった坂倉は太郎の求めに応じ、ブロックを積んだ壁の上に凸レンズ形の屋根をのせてユニークな建物を作った。当時話題をよんだ名建築だ。 岡本太郎の作品は一人の人間の枠を超えて多彩にひろがる。そのすべてがここから閃き出た。膨大なデッサンやエスキース、彫刻、また戦後文化のうねりを伝える資料の山。 これから折々に整理して、お目にかけたい。 1998年5月7日。岡本太郎が42年にわたって住まい、作品をつくりつづけた南青山のアトリエが「岡本太郎記念館」として公開されました。 建築家・坂倉準三の手による旧館はそのままに、隣接する木造2階建ての書斎/彫刻アトリエを新築の展示棟に建て替えて、財団法人の運営する公的なミュージアムになったのです。 太郎没後からわずかに2年。エンジンは、「岡本太郎を次の時代に伝えたい」と願う岡本敏子の情熱でした。 記念館の庭は岡本太郎の美意識を伝える重要なメディアです。一瞥してわかるとおり、観賞用の花もなければデザインもされていません。芭蕉、シダ類、雑草が自然のままに生い茂り、そのなかに彫刻が放り出されているだけ。彫刻と植物が渾然一体となり、作品の眼からは草が生えています。その風情はまるで古代遺跡。「東京のど真ん中にこんな場所があるなんて!」。この庭は若者たちのパワースポットになっているようです。 1954年以降の岡本絵画はすべてここから生まれました。テーブル上の道具、床に飛び散った絵具、棚に押し込まれた描きかけの作品…、すべてが当時のまま。冷凍保存された純度100%の TARO空間が、太郎の息吹を生々しく伝えてくれます。「太郎さんがいまにも階段から降りてきそう」。来館者の心をつかんでいるのは、つくりものではけっして再現できない臨場感のある〝空気〞です。 応接や打ち合わせに使われていたスペースで、大きな掃き出し窓が庭との一体感・連続感を演出しています。右奥のピンクの造形(メキシコから持ち帰った〝生命の樹〞)以外、部屋にあるものはすべて太郎が自らデザインしたもの。左奥に見えるマネキンも、本人がシリコンに埋まってつくったので、寸分違わず正確。アトリエとは別の意味で、ここも純度100%のTARO空間です。 階段を上がった先にあるのが、3面の壁と35m²の床をもつ第1展示室です。企画展ごとにその都度デザインされる空間はたえず表情を変え、新しい空気感を生み出しています。 1階ホール上空に架けられたブリッジを渡った先にあるのが、3面の壁と22m²の床をもつ細長い第2展示室です。庭に面した大きな窓をもち、ふんだんに自然光を入れることもできます。 1階ホールに併設されたミュージアムショップには、関連書籍と多種多様なグッズが並び、来館者の目を楽しませています。 ※ 岡本太郎記念館 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 〈岡本太郎記念館(東京都港区南青山6-1-19)〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年03月03日 22時25分10秒
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