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地球は暴走温室効果の瀬戸際

地球は暴走温室効果の瀬戸際

 五章 人類の進むべき道


 
 五章 人類の進むべき道
意識的な無意識的な合意が人類を産み文明を産みそれを滅ぼす力となる。
個人としての私あるいは個人としてのあなたは限りなくゼロに近い、確かにこの世界において何の意味も持たない。それは限りなくゼロに近い意味しか持っていない。政治家、宗教家、ジャーナリスト、学者、企業家でもなければ何の力も持たない。私が何をしようと貴方がなにをしようと大勢に影響を与えることはない。だから他人や社会に迷惑さえかけなければ誰にも分からなければ自分さえ良ければ、法律に違反しなければ何をやってもよいと考える。人生は一度しかない自分のやりたい事をしよう、あるいは社会の為に尽くそう。面白おかしく人生を楽しく過ごそう、人はこの様な様々な思いを持ちながら、人は生き続けてきてきた。そしてこれは誰もが思い考えていること、それを不道徳だ自己中心的だと言って非難する事は出来ない。

私達のこの様な様々な思いが集合され、それが社会の底流となり社会全体を動かしているものだ。人々の話し合いも合意などなくても社会は川の様に流れ進んでゆく、もう誰もその流れを変える事が出来ない巨大な流れとなって社会は流れる。

それは心理学者も宗教家も言う、人々が意図としない合意すなわち無意識な合意があるからだ。一人の人間の考えることは、他の大多数の人間も同じように考えている。

私だけは特別という考えは錯覚にすぎない、それは誰もが私は特別と考えを持っているからだ。同じ場面に出会えば大多数の人は同じように考え行動する。これを人間の集団として見る場合それを文化とも言う人もいるだろうし、個人として見るなら潜在意識と言う人もいるだろう。

これが社会を動かし絶えずその社会を変化させ自己組織化させる、人類社会の巨大な原動力ともなっているものだ。人類の作り出した文化と文明は全て意識的あるいは無意識の合意が生み出したものなのです。私達はこの無意識の合意がとてつもない力を持っている事に気付いている人は少ない。

貴重な動植物を絶滅させるのもこの無意識の合意。例えば登山やハイキングなどに行くと珍しい高山植物などが多数、生えているが、ひとはそれを珍しいからとか、美しいからといって家に持ち帰る。沢山生えているから少しくらい構わないだろう。あるいはどうせ俺が持ち帰らなくても誰かが持って帰るのたから、どうせなら俺が持ち帰ろうと誰もが思う、その結果何百万本有ったとしてもたちまちそれらの珍しい貴重な植物はたちまち消滅し絶滅してしまう。誰もその野原一面に咲くその花が絶滅してしまうとは考えない。

一人の人間としては取るに足りない思い、行動だったとしても、それが社会全体となったとき社会を動かす巨大な力となり流れとなる。

人は取るに足りない一人の人間の一つの思い一つの行動に、社会全体においてどのような意味を持つのか知らなければならない。とるに足りない一人の人間の行動や思いそれが集団となり人類全体となるとき、それは特別な意味と力をを持つようになり、社会全体に計り知れない影響を及ぼしている。

それはこれまで人類を肉体的にあるいは文化社会的に進化させる原動力でもあったし、人類の社会を動かし発展させ続けきたものだ。そして現代の科学技術文明を生み発展させ導いてきたのもこの人々の意識的あるいは無意識的な合意であるのです。

アーサー・ケストラー著ホロン革命の訳者、田中三彦氏はその本の訳者後書きのなかで次のような意味の事を書いている。(進化の梯子を昇って行くのはなにも生物のだけではない。無生物もりっぱに進化する。ラジオやテレビや自動車などほとんどあらゆる人工的無生物がかなりの速度で進化する。それは自動車が出来た頃の自動車と現在の自動車を比べればすぐに解ること。しかしまたコアラベアが進化をやめたように、人口無生物も進化を止めた物がある。例えば蒸気機関車がそうだし自転車もそれに近いだろぅ。さらに進化の可能性を内に秘めながら、化石化してしまった物もある手回し計算器がそれできわめて興味深い機構を持っていたにもかかわらず。より進化した電卓という新参者にたちまちのうちに取り替えられてしまっていまでは物置の中で骨董品としての価値が出てくるのを待つだけとなっている。こういった人口無生物の進化が、ランダムな突然変異と自然選択によって行なわれていると言うものは誰もいない。人工的無生物の進化は人間のデザイナーの意図に元ずく、構造、機能、形態的な突然変異が、自然選択ならぬ人々の無意識的な合意の選択を受けているのである。)

個々のランダムな関係に於いては何の意味も見出すことが出来ないとしても、それが多数集まるとき明らかな秩序が現われる。この地球上に住む全ての生命の織り成す無数の関係は、個々の生命の関係では観られなかった明らかな秩序があり、瑠璃色のこの地球そのものがひとつの生命のように見える。

それはまた心そのものようにも見える、それは神の見えざる手でもあり、意志でもあるかのよぅにも見える。この地球上に生きる総ての生命たちは、その見えざる意志に導かれ、進化してきたのです。それはまた個々別々の種においてもそれと同じ質の現象を観ることが出来る。それはまた下のレベルへと階層的に続いている。

個々の生命は自らの意志とそれら両方の関係に導かれ成長し、進化をしてきたのではないでしょうか。私はこの現象が生命の誕生と進化の源となった自己組織化現象の源ともなっている現象だと確信している。

人類の場合初期の段階では生命全体との関係のほうが高い比重を占めてきたと思うが、

後期になると自らの作り出す関係のほうが、自分自身の進化において圧倒的に高い比率を占めたのではないかと思う。この無意識の合意を原動力として人の社会を動かし、発展させてきた。

人類はチグリス、ユーフラテス川流域に世界最初の文明を築きあげたのも、そしてその文明を様々な理由から滅亡へと導いたのも、同じよぅな文明を次々と起こしそして滅亡へと導いたのもそれは同じ質の現象でした。そして人類はこれらの歴史の遺産の語ることに耳を傾け聞かねばならないのに、また同じような過ちを世界的な規模でまた繰り返そうとしているのです。この地球が人類の住めない惑星になったら人類はどこに行けばいいのでしょうか。

少し前まではこの無意識の合意は、これまで全体としては良い方向にと、動いてきた。 これから先この文明を破壊し滅ぼす方向にと力が働きはじめている。文明は熱帯雨林を消失させ、耕地の表土を流出させ、砂漠は拡大する。これが世界の至る所で起こっている。先進国においては大気汚染が急速に森林を蝕み枯死させつつある。ヨーロッパでは森林の壊滅は時間の問題だ。現在のサハラ砂漠はほんの数千年前までは大きな川もあり森林もあった。人々は生きてゆくために家畜を飼い家を立て炊事をするために、木を切り倒した、自分たちの住む土地を砂漠にしようとは誰も考えてなかったはず、しかし人口の増加と森林の伐採による乾燥化が重なり急速に砂漠化していった。

 

現在のサハラは木一本、草さえも生えないような砂の海が何千キロと続いている。その流れは現代にまで続いており加速化している。そして人類は同じ過ちを世界最大の熱帯雨林地帯アマゾンで繰り返そうとしている。あのアマゾンの熱帯雨林は後二0年もしたら消滅するだろう。これは人類にとって取り返しのつかない損失となるだろう。

あのニューヨークの摩天楼を築きあげた、現代の物質文明は崩壊し始めた。その物質文明の象徴ニューヨークの摩天楼が老巧化して来たので建て替えなければならないのだが周りに建物や色々なものがあるので危険でとり壊す事が出来ない。日本の本州の面積程にもある高速道路網も老巧化が激しく至る所で切断されている。それを改修するにもその資金が無くそれも出来ない。これらは全て廃墟になって崩れ去るのを待つしかないのだ。これは世界の先進国の大部分の都市について云えることだろう。石油の枯渇ともに世界の大都市は壮大な廃墟を残すことになるだろう。それにもまして全面核戦争並みの破壊力を以て人類を襲いつつあるのフロンガスである。人類はこの物質の持つ魔性を半世紀にも渡って気付かなかった。この物質は直接の毒性はなく人間にとって真に取り扱いやすい。気が付いた時はその物質無くして文明が成り立たない程に、我々の身の回りに浸透していたのだ。エイズが巧妙に人の体に潜り込み人々に伝染させ、何年もしてその本性を顕にし人を確実に殺してしまうように、フロンガスはその本性を覆い隠し文明の中枢に忍び込み、その魔性を顕にして全面核戦争より確実性をもって人類と文明を滅ぼす事になる。

フロンガスによるオゾン層の破壊は、人類とこの地球の生命を極短い期間で滅ぼしてしまうかも知れない。このエイズとフロンはとてもその性質が似ている。まるで意志を持っていて自然の天敵である人類と文明を、滅ぼすために何者かが意図的に作っておいた落とし穴のように見える。あるいはそれが一つの大いなる意志のあらわれにも見える。人間はそれに従う以外にこの地球で生きる道は無いようだ。これらの現象を起こしているのはガイアであり、その現象はガイアの言葉そのもの。

ガイアとその言葉は我々にどのように生きるべきかを既に示している。それは既に我々の精神の内にある。我々の持つ言葉の内にある。これまで人間はその言葉に覆いをかけ封印をしていたのだ。そして自堕落に自己本位に生きてきた結果がこのざまだ。

この流れを変える事は可能だ、そしてこの流れを変える以外に人類が生き残る道は無い。しかしこの流れはとてつもなく巨大な流れでこの流れを変える事は難しい。それはこの流れの源がこの世界五十七億人の人の心そのものにあるからだ。人々の心にもっとも深い位置から自分自身とそれを取り巻く社会とそして、この世に存在するもの、生きるもの総ての者との関係の認識に誤りがある。人の心の在り方そのものに誤りがあるからだ。人は何の繋がりももたない砂粒ではない、それは一つの神経細胞が数十万ものほかの細胞とつながりを持っている事にも例えられる。一人の人間の場合一つの知識も一つのつながりとも数えられるから、神経細胞をも、はるかに上回る、網の目のような、有機的な関係を持っている。その関係は微妙かつ曖昧で複雑多岐にわたるもので人が認識出来る関係などごく一部分のものにすぎない。

人はこの世に取るに足りない意味のない存在としてこの世に生まれたのではない。この世紀末に人としてこの世に存在することは重要な意味を持っている事を知らねばならない。一人の人間の思いは、それに繋がる人々と生きとし生きるもの全てのものの生死の鍵を握っている。人も動物も植物も、人の思いによって導かれる。その思いは生きるもの全てを救う救世主ともなる。またその思いは生きるもの全てを滅ぼす悪魔ともなる。ほとんど無意識に近い状態で思い、行動する習慣は厳に慎まねばならない。人々の無意識の合意の壁を突破するには全ての人々がそれに気づく以外にない。その壁を越えるとき人類は新たなる進化の段階に入る。そして人類は物質文明を超える新文明を誕生させるだろう。

自己組織化
さまざまな関係が二千五百年前ブッダを生んだ。さまざまな関係がキリストを生んだように様々な関係があのアインシュタインやイリア・プリゴージンにあの偉大な発見をさせたのだ。あたりまえの人々の中からあのよぅな偉人が生まれるのは、たった一つの細胞から細胞分裂して体が作られ様々器官が作られ脳の神経細胞が配線される現象と同じ質の現象が起こっているからではないでしょうか。同じ遺伝子をもつ細胞が皮膚になり神経細胞になるのと同様に、全ての人はブッダにもキリストにもアインシュタインにもなれる可能性を持っている。

彼らがそぅなったのは関係が彼らに一番強く働きかけたからだ。いや彼らがその関係に一番敏感に強く反応したからかな。人の社会も様々な関係が人に機能を与え組織を作らせ文明を生み発展させる。知識も様々な関係によって自己組織化し知識自体が知識を生む。私の学んだ課程もその課程だし数多くの先人そうして関係から学んできたに違いない。水が最も低い所を選んで流れるように、人は無数とも言える関係によって導かれる。

それはまた脳細胞を結ぶニューロンにも例えられる。人に心があるように、様々なレベルの生命も、様々なレベルの心を持つ。それは人の体細胞、脳細胞に於いても同じこと。

ほかの脳細胞との様々な関係が、その細胞に自己の役割を認識させ新しく他の細胞との間を配線し、自己のメッセージを伝える。そうして自己組織化は進みそれら全体によって

このとてつもなく複雑な脳という器官は作られる。

それはまた人の意識、心についても言えること。ひとには様々な感覚や様々な感情そして無数にも近い思いがある。それら全ての感覚や感情や全ての思いを取り去ったら、私という存在はなくなる。私という存在はそれら全てが、有るからこの世に存在できる。しかし一つ一つの感覚や感情あるいは思いは私ではない。それが単純な現象だったとしてもそれが数多く集まるなら特別な意味を持ってくる。それが私という存在なのです。この存在感が、そして周りにある全てのもの、あの花が、あの木が、このそよ風が、この大地が、この宇宙が、この世にある全てが私という意識をこの世に在らしめている。取るに足りないようにも見える、それらがあるから私という意識がこの世に存在できる。

私の両親は私の肉体の産みの親、この私の意識を産みんだのは周りにある全てとの関係。それらこそ私の真の産みの親でありそして真の教師であり導師でもある。それらが私を導きその歩む道を与える。人は人と人の関係とその他のものとの無数の有機的関係によって導かれてゆく。

知識を一つ増やす事は一つ関係を増やすこと。ひとりの新しい友人を持つことは数十、数百の新しい関係を作ることになる。それら全ての関係が人に私にその役割と使命感をあたえる。それが幸福を与え私は誰かをなぜこの世に存在するかを知らしめる。そして人に私にどこに向かって進むべきかを教える。一人の人間は数えきれない程の関係を持ちそれらによって人は導かれている。いま様々な関係は人に人類にその進むべき道を指し示す。人は人類はその道を進む以外生きて行く道はない。

 


自然に塵はは無いこれは人間が発明した最も醜悪な発明品である。
この自然に意味のない無駄なものは何ひとつない、草木一本といえどそれがこの世に存在することの意味がありそこに在るべくして在るのです。彼らの命の火が消える時がきても彼らは騒がない。その命が消えてもその体は無数の命のの糧とななり、彼らはその命が消えても仕事をなす。そこに人類が彼らの間に土足で踏み込み、かき回すことは絶対に許される事ではない。私達が忌み嫌うヴィルスや病原菌といえども、この世に存在する意味があるし不要な物ではない。それを患った個人にとっては悲劇だろうが、種としての健康のためには必要なものだ。

そして人類にとっては悲劇的な結果をもたらす事になるかも知れない、病気であるエイズも、この地球の生態系全体の健康維持する為には、必要なものであるのかも知れない。

過去において私達を苦しめた様々な伝染病も、私達の心の在り方を含めた某かの不自然さをついて私達を襲い、不自然さの大きい人間とその集団を間引いてきた。エイズも人間が自然な生活をしている限り表面化する事はなかった。自然は常にその恒常性を維持するための安全弁とその生命が進む方向を示す、道標を即ち進化の方向を持っているようだ。その安全弁や道標が天敵であったりあるいは病気であったりするのだ。それに逆らって生きる生命は子孫を残す事が出来ない。エイズは一旦罹ってしまったらそれを治すことは出来ない不治の病であるが、この病は明らかに私達に道徳的な規制を求め、私達が進むべき方向を示している一つの道標であると私は考えている。

またエイズを含めたレトロヴィールスは生物の細胞内に侵入すると、その遺伝子をその生物の遺伝子の中に割り込ませその生物の遺伝子になりすます。そして何かをきっかけとしそのヴィールスの遺伝子が活性化し宿主の細胞を乗っ取り宿主の資源によって子孫を生産させる始める。

中にはそのまま活性化せず宿主の遺伝子になってしまうのも有るだろう。私はそれが遺伝に直接影響を与える事は無かっただろうが、宿主の生命の遺伝的な思考空間の巾を広げる事にはなっただろうと考える。したがって極単純な生命からから人類まで進化が進んできたのは、レトロヴィールス広げた思考空間のなかで生命体それ自身が様々な環境に対応する形で生命体の心が進化し、それに付いてくる形でその表現形質の方も、様々に進化してきたのかも知れない。生命の進化において、常に大きな比重占めてきたのは、彼等ヴィールスだったかもしれない。人類はこれまで病気を忌み嫌い、様々な細菌やヴィールスの引き起こす病気と闘い、それらの病気を克服して、種としての繁栄を築き挙げた。しかし此等の人間が患う病気は、それ自体が人類の進化においてかなりの役割を担うと同時に、自然が人類とこの地球の生態系の健康の為に、作っておいた安全弁としての機能を、果たしているのではないだろうか。

それを我々が人間の側から見た論理だけで、その安全弁を丁寧に一つ一つ取り外してしまったのだ。そのために人類は次第に種としての健康を失い、そして人口の爆発的な増加を引き起こし、自分が生きて行くための環境そのものを破壊し、幾多の生命を絶滅させ、この地球の生態系、そのものの健康を奪ってしまった。不治の病と言われるエイズは、自然が残しておいた最後の安全弁なのかも知れない。

この地球に存在する全てのものは、それが存在するための理由があり、全ての生命はこの地球の、生態系を維持するため某かの役割を担っている。それは人間に明らかに理解出来るものから、人の言葉では理解不能な、極めて微妙で精緻な機能を担っているのもあるだろう。

全ての生命にとって自己本意な生き方は存在しない。自己本意な生きかたしか出来ない生命は、この地球で生き残る事は出来ない。此等の事が雄弁に物語っている事は、人間は直接に人に害を与える、天敵や害虫や病気を含めて自然に存在するものを、存在するままに全てを受け入れなければならない。人のに害を及ぼすからと言う理由だけで、それを排除する事は許される事ではない。

自然は人の認識の限界を越える程に極めて複雑でかつ精緻にして微妙そして完璧なものだ。それ自体が明確な意志を持った生命体でもある。人にはそれは時として神にも見える事もある。それを人の浅い知恵と意志によって手を加えるのは大きな誤りだ。自然の秩序を乱しそれはやがて人に悪い形に姿を変え思いもよらなぬ所からはね反って来て人に厄をもたらす事になる。

この自然界においては塵埃なるものは存在しない。この自然にはゴミは存在してはならないのだ。この地球上に住む如何なる生命といえど、その亡骸が不要な塵となるようには作られていない。その亡骸は他の命たちの糧となり体となりその体もまた、他の命の糧となり体となり、この自然界を巡り巡るように作られている。だが人間はその無数とも言える、発明品と同様に塵なる物も発明した。これは人類が発明した物のうち最も醜悪な発明品である。これらの発明品のほとんどははそのままでは自然に還ることはない。そのため焼却場なる特別な場所で燃やし、そのため焼却の際に出る廃ガスやPCB、ダイオキシンや時には放射能など様々な汚染物質で、自らのすむ環境を汚染しそれは人を含む様々な動植物に害を与えそれらの貴重な生命を滅ぼしてきたのだ。

そして生命が生き続ける為に必要な貴重な資源だった、その灰も人にも他の生命も二度と利用する事の出来ない重金属で汚染されており、地中深く埋めてしまう以外に使い道はない。そのために本来生命の間を半永久的に循環し続けるはずの、その物質循環の環を断ち切られてしまった。

そのために森林等の自然は急速に貧弱になりやがて消滅する事になり、耕地は痩せ衰え何も作物を生み出さなくなり最後には岩石だらけの荒野と砂漠になる。物質循環を断ち切るところから必然的に来るこの愚かでとてつもなく壮大な資源の無駄使いによって、この地球全体の、環境の破産を招き放射能と毒物で汚染し、己れ自身と全ての生命を破滅と滅亡へと導いているのだ。

そして使い方によっては人類全体が半永久的に使って行くことの、出来るそれらの資源を僅か数世代で使い尽くそうとしているのだ。そしてその後に残った不毛の荒野と砂漠と自然に分解される事の無い塵の山と全ての生命に有害な汚染物質と、そして放射能で汚染されたこの土地を数千世代もの未来の子供達に有無を言わさず、押し付けようとしているのだ。我々に何の権限があって放蕩三昧の悪しき遺産と、その汚物の後始末を数千世代にわたる子孫に押し付ける事が出来るのだろう。私達の子供達へのこの思いそしてこの愛情は偽りのものなのか。

未来の子供達はその汚物の山の中で、どうやって生きて行けば良いのだろうか。もしこの思いが虚飾でないのなら、今直ぐに私達が実行しなければならない事がある。それは私達がこれまで不要な物を、塵として扱って来たがこの地球に不要な物は存在しないし存在してはならない。ゴミはこの地球の生態系には存在しないし、存在してはならないものなのです。それらを無害な形にして自然に還るようにしてやるか、新たな役割を見付けてやるかあるいは新しく物質の循環系を作り直す事だ。

そして自然が注意深く隔離していてくれたこれらの有害な様々な物質をこれ以上生態系に持ち込む事は許される事ではない。地中深くに有る物質には、そこになければならない理由が有って、そこにあるのだから。そこに有る一本の草木といえど、そこになければならない理由が有る。自然に不要ものは何もない。自然は自然なままそっとしておくべきもので、人間が手を加えるべきものでない。我々人間だけの一方的な価値判断で、それらを乱してはならない。金儲けの為極一部の人間の利益の為、あるいは人間の為だけという理由で、それを掘りだしてはならない。

我々が自然の、その警告を無視して、自分勝手な行いをするなら、自然は我々をそのままにはしておかない。いずれ強烈なしっぺ返しを喰う事になるだろう。今人類の社会に地球的な規模で起きつつある、様々な破局的な現象は全てそれに起因するものだ。

人には怒りや恐怖とか悲しみ嫉妬といった、否定的な感情が幾つかあるが、このような感情といえども不要なものは何一つなく、これら否定的な感情とその反対の喜びなどの感情ともに、人間が人間として存在するためにはなくてはならないもの。人に怒り恐怖などの感情がなければ、人の悠か遠い祖先は手強い競争相手との生存競争に、勝ち生き残ることが出来なかっただろうし、現在に於いても間違いなく、それらの感情は人が生きて行くうえにおいての、原動力になっているのは間違いない。そして悲しみや嫉妬そして喜びなどの感情がなければ、人間の心がこれ程豊になる事はなかったし、文明が誕生する事もなかっただろう。

人間の精神を侵す病に精神分裂病があるが、これを起こす形質はかなり遺伝的なものらしいが、この形質をもつ分裂質呼ばれる人々に、天才的な才能を持った発明家や芸術家や宗教家や哲学者あるいはは革命家がよく生まれる。歴史の転換点で指導的な地位にあった、人のかなりはこれらの人々と思われる。精神分裂病は私達にとって、否定的な病であるがその形質は人類にとって必要であるから、広い範囲で存在しているのではないだろうか。


全ての生命は他の生命によって生かされている。 
すべての生物は他の生物によって生かされている、この関係は人間に於いても例外ではない。これまで人類はどれだけの生命を絶滅させてきただろうか。その生物がこのガイアのなかで、何の役割を担っていたかを知らずに人の害になるからとか、人に必要だからとかで駆り立てられ殺され絶滅させられた、あるいは森林の消滅により人がその事に気が付かないままひっそりと絶滅していった生命は数知れないだろう。この生き物たち生命は資源ではない。その生命の世界において不必要なものは何一つない、全ての生命にはそこに存在している理由と意味がある。どれ一つ欠けても完全では無くなるし、それはやがてその生態系全体へと影響を与えてくる。それ無くして生きてゆく事が出来ない、必要不可欠な我々のからだの一部と同じものだともも言えるもののだ。

我々人間のどの臓器や器官が悪くなってしまっても、病気になってしまったり、色々不都合なことが起きてくるように、森林が無くなったら、植物が無くなったら昆虫が居なくなったら土壌中の微生物が居なくなったら、様々な不都合なことが色々起こってきて、我々は生きてゆく事が出来なくなる。彼らは我々が生きてゆく上において必要不可欠な、外部にある臓器であり器官とも言えるものなのだ。私達はこの地球すなわちガイアに生かしてもらっていることに気づくべきだ、人類が誕生して数百万年ガイアはかなりの悪童だった人類を暖かく包んでくれた、そして成長して人類は青年になった現在、ガイアは人類に大人としての自覚を求めている。

これまでのよぅな勝手きままなな生活はもう許してくれないのだ。この無数ともいえる仲間達のなかで自分の役割を探し、それによって生きることを彼女は望んでいる。そしてその仲間の一員として生きる事を望んでいる。それ以外に私達が生きる道は存在しないし人はその無数の生命の織りなす生命共同体社会の中でしか生きてゆくことは出来い。その社会のなかに自己の役割を見付けそれによってその社会から分配を受け、それによって始めて生活し生きて行ける。

ただ現在の人類のしていることはその生命の社会から、腕力にまかせ強引に強奪しているといったほぅが正確だが、このような生き方が長続きしないことは明かである。そのためか人類はこの地球の生命協同体社会から強烈なしっぺ返しを食っている。他の生命たちが、自分の部所を守り慎ましい生活をしているよぅに、一刻も早く人類も自身の真の生活場所を早く見付け、この地球の生命協同体の一員となり生きて行く以外道はない。

いま在る私達はこの地球上に住む全ての生き物たちに導かれて、人として存在できるのだということを知るべき、いま在る私達は過去に生きた全ての生命の思いと、その屍のうえに存在することを知らなければならない。私達は過去に生きた全ての人々、その他の全ての生命、過去四十億年生き続けてきた無数の生命の遺産、そしてただ一つの希望なのだ。人のこれ迄の生き方農業も牧畜業もそして工業も、ガイアが我々を導こうとしている真実の道ではない。


当たり前の人

世界を動かしているのは少数のエリートだというのは幻想だ。エリートというのは極少数の人間、大多数を占めるあたり前の人々の支持がなければ何も出来ない。あたり前の人々がいてこそエリートとしての仕事が出来る。中国の古い諺に「愚公山を動かす」という諺があるが私はこれ迄云われていた解釈は不十分で本当の意味は民衆が潜在的に持つ巨大なエネルギーを表現したものであると思う。

あたり前の人々は自分自身の真実の姿に気が付いていない。自分自身の持つその巨大な力に気が付かない。その大きさに気が付かない。文明を築き導いてきたのは自分自身であることに気が付かない。そして自分が導き築いてきた人と文明を破壊と滅亡へと導きつつあることに気付かない。人間を人間として進化させてきたのは自分自身であることに気づかない。

この世に生きるすべての生命を救うことも、すべての生命を滅ぼすことも出来るほどに巨大な力を持つことに気が付かない。そして自分の矮小さを嘆いているのがあたり前の人間なのです。エリートたちはこのあたり前の人が自分自身の真実の姿を知られるととても困る。それは虚構のうえに成り立つ自分たちの立場が危うくなるからだ。少数のエリートはあたり前の人々にお前たちは劣っている、取るに足りない存在だと繰り返し繰り返し教えつづける。あたり前の人々はその言葉を鵜呑みに信用してしまい、その見えざる意識の紐で自分を縛り付けている。

現在の宗教と教育制度が行なっている事がそれだ。この愚劣なる宗教と教育制度は人とこの地球にとり返しのつかない傷跡を残す事になった。現在の宗教も教育制度も人々に真実の自己から目を離させるための宗教であり教育制度なのです。だからエリートと呼ばれる人にいいように利用されている。あたり前の人々が動かなければ何も動かない、何事も起きない。あたり前の人は動けない意識の紐で自分を縛られている事さえ知らない。今エリート達は騒ぎ始めた、このまま進んで行くと大変な事になる。人類は生きて行けなくなると、エリート、学者は警告する。しかしもう警告をするだけでこの世界は救うことはできない事はあきらか。聞く人もそれは良く解る、警告を発している学者と同じくらいその事態の深刻さは解る。だからといって何もする事が出来ないのが大部分の人間ではないだろうか。

あたり前の人の思いが人々をを動け無くしている。人間自身が作り上げたシステムが人を動くことが出来ないよぅにしている。あたり前の人は働き続けなければ、生きて行くことが出来ない。あたり前の人はその木か切ってはならい木だと解っていてもその木を切らざるを得ない。彼はその木を切らなければ明日を生きて行けない。彼にとって未来の人類の事よりも、今日と明日の自分の命のほうが大事な事なのだ。誰もそれを責めることは出来ない。

危機を訴えるだけではこの地球は人類ははもう救う事は出来ない。南の国々の人々に木を切り森を焼かなくても生きる手段を与えなくてはならない。家畜を放牧しなくても食べて往ける手段を与えなくてはならない。あたり前の人々が動くとき社会は大転換を成し遂げる。フランス革命、アメリカの独立、ロシア革命など何れもあたり前の人の思いが成し遂げたものだ。しかし何れも真の革命ではなかったが。

あたり前の人々が未来の子供達の運命の鍵を、人類の未来の鍵を握っている。僧侶や求道者にだけ自己認識が必要なのではない。あたり前の市民にこそ、あたり前の主婦にこそ真の意味の自己認識が必要なのです。あたり前の人こそ自分自身の真の姿を知る必要があるのです。

この地球の未来の鍵を握るのは政治家でもないし宗教家でもない。悟っていると称する人でもないし、救世主と名乗る人でもない。現在人類が迎えつつある危機的状況は聖人賢人が何千人集まろうと、大学教授やノーベル賞学者がすべて集まろうともこの流れを変えることは出来ない。例えシャカやキリストの再来があったとしてもこの流れを止めることは出来ない。

この流れを変え止めることが出来るのは名もない市民あたり前の人しかない。名もない一般市民こそがこの地球の人類の生死の鍵を握っている。彼らがその事に気が付かなければ人類に未来はない。名もない市民たちが自己の真実の姿に気付くとき。人類の新しい進化が始まる現在の物質文明を超えた新文明が誕生する。人間の意識的進化も生命としての進化も人の社会の進化もその根は一つ。


私達は意味のない存在であると同時に途轍もなく大きな意味を持った存在

この世紀末の現在に生きる人々のうちどれ程の人が、自分自身のもつ真の重要さに気が付いているだろうか。千年前なら人としての個人はそれ程重要な意味はもたなかった。百年前に於いても然り、昔からの生き方を踏襲するだけで十分生きて行けた。いま現在に至って個人のもつ意味がまるで変わってしまった。その個人の生き方の質そのもの問われ始めたのだ、それはもう権利や義務といった、類いの問題を超えている。私たち人間がこの地球上において生きて行くにはどうするか、この地球に生かしてもらうには、どうするかといった質の問題なのだ。

今生きる人々はこの世に取るに足りない砂粒のよぅな意味のない存在として生まれたのではない。この世にある全ての存在、素粒子、物質、生命、精神、宇宙に至るまで、有機的で網の目のような関係をもち、完全に孤立した存在は何一つ存在しない。全ての存在は孤立しては存在し得ない。様々な関係が個々の存在をこの世にこの宇宙にに在らしめている。人もこの精神もも様々なレベルの有機的関係のなかに存在しそれは脳細胞のニユーロンにもたとえられる、一つの、脳細胞の発進した信号は全ての、脳細胞にも伝わり得る。

一人の人間の思いは、全人類にも伝わり得る。それを伝えるのは、その人の使命感と情念である。百匹の猿の現象を思い出していただきたい。

今大多数の人々の心を支配している無力感、虚無感は誤りである。今起きている問題の全てが自分自身への認識の誤りから来ている事に気がつかねばならない。私たち現在に生きる、一人一人の個人が、この地球上に生命誕生以来この宇宙に自省的精神誕生以来とも言える、重大なな責任と宿命を負ってこの世に生を受けている世代であることに事に

全ての人々が気が付かねばならない。

もし人類が滅びるとしたら貴方が人類を滅ぼす。

終末論やら人類の滅亡を予言をする類の本が町の書店の店頭を相変わらず賑わしているが人類の現在のこの苦境を神が救ってくれるとか、あるいは偉大な指導者、救世主が現われ人類を導き救ってくれる、等とは間違っても考えてはならない。そのような思いは狡猾な政治家や宗教家などのエリート層に好いように利用されるだけだし、現在あるよぅな宗教や、どんな政治体制や政治家といえども、現在起きている問題は解決することは困難だろう。政治家や官僚は現在目の前にある問題の解決には熱心でも、何十年も先の石油枯渇後の世界の未来のビジョンなど持っていない。

彼らに関心のある事は、現在の問題の事であり、票にならない悠か未来の事などほとんど考えてもいない。現在世界中で起きている多様な問題は現在の政治体制と官僚システム及び経済システムのもとでは解決できる問題ではない。

フイリッピンの一人の農民は言う(経験からはっきりしたことが一つある。それは救世主が現われるのをひたすら待っていても無駄だという事だ。人を頼りにしては駄目だ結局自分でやるしかないのさ。キリストはうまいことを言ったよ。人々を信じなさい、そうすれば人々も貴方を信じるようになる。政府を道具のように使えるのは組織力のある金持ちだけだ。俺達には金も組織力もない。だから俺達にとって政府は道具でなくて主人だ。デモクラシーじゃない。デモン・クレイジー(狂った悪魔)だよ。)バートランド・シュタイナー著裸足の革命より。

それが一人一人の個人や団体になればそれがより鮮明になる、彼らは自己の利益のためのみにうごき政治に圧力をかける。政治家はどうしても声の大きいほうの言うことを聴かざるをえない。大多数を占めるあたり前の人々は働かねば食うことが出来ないため、仕事に忙殺され、絶え間なく襲う無力感、虚無感から自分自身の仕事とその家族位の極、限られた事しか考る事が出来ない。ほとんど無意識に近い状態で生活する習慣が身についてしまっている。

私がそれらの人に後二百年もすれば人類は絶滅するというとたいていの人は私はそれまで生きていないから関係ないという。いま起きている問題は私だけの責任でなく皆の責任だとも言う。それは社会が悪いからそうなる、それらを解決するのは学者や政治家の仕事、我々には関係ないという。

此等の言葉にいま起きている問題の全てが含まれている。今起きている問題は人々の心の荒廃にその源がある。それを引き起こしたのは自分本位の考え、それが人々を引き離し人々を無力感に陥れる。そして日本人だけでなく世界の全ての人々の心をとらえている、金さえ持てば幸せになれるという思い、拝金主義的な価値観が人の心を荒廃させている。

その思いは人の心を荒廃させるだけでなく、人類とこの地球の生命が生きて行くうえにおいて、なくてはならない自然を荒廃させ消滅させている源となっているのです。

人類の社会の混乱は人々の心の荒廃が社会の表面に現われているだけ。私達の住むこの地球と無数の生命と人類を滅ぼすのは、私達の無自覚、無関心そして拝金主義的な価値観である事に気が付かねばならない。今世界中で起きているほとんどの問題は人々の自己本意な考えや、他の生命たちを軽視することからくる事に気づかねばならない。

私達の伝統的価値観や人々の思考法そのものが、経済システムそのものが、人類がこの地球上で生きる事に適合しなくなったのだ。私達自身の心の在り方そのものを変えなければ生き残ることは出来ない。


私は団塊の世代の人間の一人、人類が自分自身で作り上げた巨大な意識の壁を突き破り、人類が意識的な進化を成し遂げ物質文明を超えた新文明を作り上げるか、あるいはその壁に跳ね返され絶滅へと向かって行くかを途中までは立ち合うことの出来る一人の人間。

未来の子供達の運命は私達の世代の思いによって決まるだろう。

現在のように豊かで繁栄している社会は私達の親や祖父母さらに遠い祖先の思い行動が現在の豊かに繁栄する社会を作り上げた、現在に生きる私達は遠い祖先たちに感謝せねばならない。

もし私達の世代が意識的進化を成し遂げえず改革に失敗したとき、百年後、あるいは二百年後の私達の子孫はなんと思うだろうか。太陽の強烈な紫外線で草一本さえも生えていない荒野が見渡すかぎり続く土地、昼間は外を出歩く事も出来ない。放射能で汚染され放棄された耕地、そして毒の流れる水、底を突く食料、迫りくる死を前にしたとき、放蕩三昧に生きる現在の私達への思いは恨みしか残るまい。社会が悪いのだから私には何も出来ない、私はそれまで生きていないから関係ないといって逃げる事は許される事ではない。私達が死んで消えてしまってもこの罪は永劫に消える事はない。

この宇宙で知的生命体が誕生したのはこの地球だけかも知れないのだ。そして私達の犯した罪によって苦しむのは私達ではなく、子や孫達の代なのだ。これから数千世代にわたる私や貴方の子孫が私達の残した草も木も生えない荒野と放蕩三昧の末に残った汚物の上で暮らさなければならないのだ。未来の子供達の苦しみは、私達の無知と怠慢がもたらす事に気が付かねばならない。今私達がしている事は、未来の子供達の生命力を食い荒らしていることに気づいてほしい。未来に生きる子供達は私たち祖先が食い荒らした事によって、もう幾許も生きる力が残っていない事に気づくだろう。

未来の子供達にそのよぅな思いをさせてはならない。それが世紀末の現在に生きる我々の世代の宿命であり責任だ。数えきれない程の奇跡の積み重ねのうえに、私達がこの世に存在することの意味はそこにある。私達の悠か遠い祖先たちは私達が直面するような危機に直面した時どうしたのだろうか。その種族の存亡を賭た危機に直面した時どうするだろうか。文字どうり彼らは命を賭て子供達や孫たちのために尽くしたはず。我が身をなげうって子供達を救ったに違いない。だからこそ現在の私があり貴方があるのではないか。


今在る私は、今在る貴方は何十万年、何百万年と続く悠か遠い昔の祖先の思いが、現在の私達を人間として存在させていのではないでしょうか。



これから二十一世紀を挟んでの百年間は人類が一度も経験したことのない混乱と破壊そして戦争、飢えた人々の民族大移動など在りとあらゆる事が起こるでしょうこれらの危機に際して人間として出来ることは、武器を手にする事でしょうか?。食料を貯め込む事でしょうか?。スペースコロニーを造る事でしょうか?。何も出来ない人々はただ座って待つしか方法は残っていないのでしょうか?。ただじっと座って死の来るのを待つしかないのでしょうか。ただ滅びの運命の波にこの身を任せるしか方法はないのでしょうか。いや違う、断じて違う人間として出来ることは武器をとる事ではない。食料を貯め込む事でも、スペースコロニーを造る事でもない。滅びの運命の波に身を任せることでもない。

どうせ私には何も出来ないと無責任に開き直ることでもない。開き直ることでこの世の中変わるでしょうか。開き直るなら子供でもできます、大人は皆私には何も出来ないと開き直っています。だからこそこの世の中の流れを変えることが出来ない事に気づくべきです。これが人類の未来に暗い影を投げ掛ける意識の壁の姿です。もし人が滅びるとしたらそれが人の運命なのではありません。滅びる事が私達の遺伝子に書き込まれているからでもありません。神の御心によって滅びるのでもありません。わたしたち自身が作り上げたこの巨大な意識の壁が人を人類を滅ぼすのです。この人々の意識の壁を突破できない限り人類に未来はありません。全ての人々がこの事実を認識しないかぎり人類に未来はありません。人の心の在り方が一人一人の人間の心の在り方が人類の未来を決めるのです。今在る貴方の心の在り方によって人類の未来は決まります。

この人類と無数の生命を滅ぼすのも、この青い地球と全ての生命を救う事が出来るのは、貴方自身である事に気が付かねばなりません。人類に最後の審判を下すのは神ではなく貴方自身である事に気づかねばなりません。なぜなら貴方の考えている事は、他の全ての人々の考えていることと同じだからです。同じ事態に直面すれば人間百人の内九十八人は同じように考え行動します。私だけは特別という思いは錯覚です、他の人も皆そう思っているからです。貴方がこの事に気づき貴方として出来ることをすることでしか全ての人間がその事に気づき、一人一人の人間が人間として出来る事をすることでしか、この地球と人類を救うことは出来ません。貴方が人間として今この世に存在することの意味は其処にあります。人類の未来は私達の住むこの地球の未来は、どれだけの人々がこの危機の本質を認識できるかにかかっている。

しかしこれは容易な事ではありません。もし私達に人間としての心があるなら、人間として可能な限りの事を、し尽くして、矢折れ力尽きて死を迎えようではないか。それが人間としてこの世紀末に生きる人間の道ではないでしょうか。

 

 


超能力について

世紀末の現在オカルトブームも峠を過ぎたが、人々の無知と不安心理につけこみ、超能力を売り物にする宗教団体は隆盛を極めている。また超能力者だとか霊能者あるいは預言者だとか称する、人は数えられないほど存在している。

この世界には科学だけで解明できない部分がある事は否定するものではない。しかし私はこれらの人々の行なっている行為、スプーン曲げや、空中浮遊や精神感応等や、様々なものがあるが、例えそのような事が実際にあったとしても、

それは超能力ではなく、マジックのような見世物以外の何物でもないだろう。本当にそのような能力を持つ人が存在しているとしても、そのような能力は私にとっては単に好奇と笑いの対称でしかない。

もしそれが如何なるトリックをも使わず奇跡に見えることが誰にも実証できるものなら、私はこの世界観を変えるのに躊躇はしないが、一人や二人の人間ににその様な事が出来たとしてその様な人を超能力者や救世主と呼ぶのは馬鹿げた事だ。

現在人類が迎えつつある現在の世界の状況は、一人の超能力者を持ち救世主と名乗る新人類が表れたとしても、あるいは陳腐な宗教活動や自然保護運動や反戦反核運動で、その流れを変えられるほど単純な状況ではない。

その人が現在破滅へと向かって、進みつつあるこの地球の生命と、人類を救う事が出来るでしょうか。それが出来るとするなら、その人を真の超能力者そして救世主と呼ぶのは当然だ。これまでに表れた超能力者と言われた人々は全員、人並み外れた才能を持ってはいるが、名前を売りたいか、金儲けが目当てのマジシャンか、曲芸師か見世物師にすぎなかった。

この日本にもそして世界にも超能力を売り物にしている、宗教団体は多数あるが、それは単に人を集めるための、美味しい釣り餌として使われているだけだ。それらの宗教団体の教義は全てがインド等で誕生した、伝統的宗教の教義を借りて来たものを、少しその味を変えたものもで、腐敗し悪臭を放つような教義を、恥ずかしげもなく振り翳している。

そして人類が進むべき未来の社会への、新しい真のビジョンを指し示しているものは、全く無い。宗教活動の原点は悩める人々や病気に苦しむ人々を救い、人々に進むべき道を示す事にある。その根本はどの宗教と言えど同じはずだ。

その意志が有るなら全ての宗教家は為にする、まやかしの行為を捨てて、その原点に立ち帰り、他の全ての宗教家と一つになって、この人類をこの危機から救う為に立ち上がるべきだ。それぞれの穴のなかでお互いに勝手な事を言っていたのでは、全ての人々が共倒れになる事は避けられない。

どの宗教にも、超能力に目覚めさせるための教義や、カリキュラムが存在するが、そのようなものに頼らなくても、我々にはとてつもない能力がある事に気付くべきだ。

私たち一人一人の人間には無力で何の力も持たないが、それが集団となりあるい国家となり人類全体となるとき、人間はとてつもない能力を発揮する。これこそ本当の超能力と言うべきものではないのか。

過去から現在に至る全ての文明は、その能力がによって作り上げられたものなのは間違いない。しかし残念ながらそのとてつもないその能力が、自然を破壊し数えられない程の生命を殺戮し絶滅させているのも事実である。

そして現在に至り現在の人間の持つその超能力は、たった一言たった一本の指で、人類自身とこの地球の生命をを数十回も絶滅させるだけのすさまじい破壊力を持ち、そして私たち一人一人の人間誰もが考えている実にあたり前の事が、この地球をゆっくりと生命の住めない灼熱の惑星に変えつつある。

これに比べればスプーンを曲げたり空中浮遊の超能力など、実に可愛く可笑しな超能力と言わざるを得ない。

その2に続きます。





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