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伊賀市与野、花垣の八重ざくら NHK「歴史秘話ヒストリア」の「日本人と桜の物語」でも取り上げられていた話ですが 寛弘五年(1008年)第66代一条天皇の時、中宮(第一夫人、当時は官職も有った)彰子 (しょうし)が、興福寺の境内に植えられていた八重桜の噂を聞き、宮中の庭へ植え替えようとして、 使いをやり、根っこから引き抜き荷車に乗せ今の若草山の奥あたりまで来た時興福寺の僧が追って来て 「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」 と迫ったので、彰子も断念した後、伊賀、与野を興福寺の寺領として与えて、そこでサクラを育てさ せ、桜が花盛りの七日の間は宿直(とのい)して花を守る花守を遣わしたので、予野庄はこれより後 「花守の庄」とし、庄の人々はサクラを育て守ることに精を出したと言われます。それから毎年花の 頃に「花の守り」を遣わし、今でも伊賀上野には「花垣の庄」と呼ばれる花守の子孫がいて、 「奈良の八重桜」を霊木として守っています。 天然記念物石碑、その後の木が八重櫻 八重といっても豪華な牡丹桜ではなく葉と共に 小さな花がつく、よく見ないと八重と気づかない花でした。 この木は10年ほど前に老齢でよわった木を接木で増やした苗木を後継樹として、地元住民らが 見守り続けているものだそうです。 この彰子の女房(宮廷の使用人)に『源氏物語』作者の紫式部、歌人の和泉式部、『栄花物語』 作者赤染衛門(あかぞめえもん)、そして歌人の伊勢大輔(いせのたいふ)などを従え、前の中宮、 定子(ていし)当時の皇后には清少納言が仕えていました。信じられないほどの大文芸世界を形成 していました。 当時のエピソードとして奈良の僧都(そうず、僧正の次の位)から八重桜が宮廷に届けられた時、 使者から桜を受け取るお取り次ぎは、紫式部が勤める予定のところ、古参女房の紫式部が意地悪を して役目を、新参女房の伊勢大輔に譲り更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院を はじめとする人々の賞賛を受けたものであるその時、大輔が詠んだのが百人一首などでも有名な 「古(いにしえ)の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」 です。この歌の「九重」は、桜の花びらが八重、九重と重なっている様と、禁中(宮中、九重)の 事とにかけられていますが八重桜の美しさと、歌の見事さに宮廷人が皆、感嘆したといわれ中宮、 彰子も 「九重に にほうをみれば桜狩(さくらがり) 重ねてきたる春かとぞ思ふ」 と返されています。 この話の感動がもしかしたら後に興福寺の八重桜の移植騒動につながったのかもしれません。 伊勢大輔が宮中に仕え始めたのが1008年だといわれているので年代的には ちょうど合いますが。 同じ敷地内の八重桜ですが、牡丹ザクラともいわれる花でその時代と同じ桜ではないようです。 芭蕉は伊賀出身ですから、この花垣の庄を元禄3年(1690年、47歳)訪れて 「ひと里はみな花守の子孫かや」 の句を残しています お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024年04月07日 18時39分03秒
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