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伊賀へいらっしゃい

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2020年03月01日
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藤堂高虎の残念石

京都府木津川市加茂町大野の勝手・春日神社下の府道(天理加茂木津線)に面した河原には、
2~4m程の花崗岩の切り石(約 15 個)がひと固まりとなって残されています。これらは、徳川幕府
が大坂城を修築した際に、藤堂高虎(とうどうたかとら)によって石垣に使用するために切り出され
た巨大な石材の一部で、切り出された石材は、木津川に降ろし舟で木津川・淀川をくだり大坂城まで
運ばれま した。一方、大坂城へ運ばれなかった石材は、何らかの事情で大坂城へ行けなかった(備蓄用に集積との説も)石は残念石と呼ばれています。

1620年代、徳川秀忠から大阪城修復を命じられた高虎が、木津川沿いにあった常念寺に30日間宿泊して石垣の切り出し作業の陣頭指揮をとったそうです。






元和6年(1620)、徳川幕府が大坂の陣で廃墟となった大坂城を再築した際に、普請総指図役(大坂城修築の総責任者)藤堂高虎により石垣に使用するために京都府木津川市の大野山から藤堂高虎に
よって切り出された巨大な石材の一部です。切り出された石材は、木津川に降ろし舟で木津川・淀川をくだり大坂城まで運ばれました。
ここから大阪城に運ばれた加茂の石は、日本古城友の会「大阪城石垣調査報告書」によりますと、
本丸側と二の丸側で確認されているそうです。
 個々の石には、その石を切り出した組(班)毎の固有のシルシ(マーク)が彫られています。
現在七つのシルシが確認されているそうで、この石の一と二を組み合わせたものは藤堂式部(家信)のものだそうです。







京都府の道路敷設計画「赤田川樋門改修 及び 府道天理加茂木津線バイパス整備」に伴い、残念石の
集積地一帯が埋め立てられる見通しとなりました。大野の残念石は支障物と見なされ、刻印が確認
されている残念石(3個程度)を保存する予定ですが、残りのほとんどの残念石が地中に埋められるかもしれない危機に瀕しています。




藤堂藩城和奉行所跡

奈良市古市の奉行所跡の蔵と向こうに土塀
現在の南京都府と奈良県の山城・大和の領地、すなわち「城和領」は、元和三年(1617)に大坂の陣の報奨として加増された南勢田丸城付五万石の領地がありましたが
元和五年(1619)徳川頼宣の和歌山転封(紀州藩成立)に伴って伊勢国の多くが紀州領とされたため、山城・大和のうちで五万石が替地として与えられたのです。







この奉行所に天理教(天理教系信仰)教祖中山みきが勾留された。中山みきが生活していた三昧田村や
庄屋敷村は藤堂藩の所領だった。慶応2年(1866)、小泉不動院(奈良県大和郡山市・真言宗醍醐
派)の訴えにより、無許可で祈祷をしているとして、中山みきを2.3日間勾留し、最初の弾圧事となる。






幕末の天誅組騒動のときにもここで裁いた。
天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。
大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した、捕縛された。藤堂藩士がここへ天誅組浪士を連行したことでも知られています。








城和の政(まつりごと)はこの奉行所の北側にあった陣屋で行いました。(この写真を撮っている所)
古市陣屋は、 古市城の一郭で陣屋の西側に城の堀がかつてはあったようでした。
土蔵が建っているところが勘定場の在った所、ここから北へ鍵形の交差点までの道路西側の宅地一帯が陣屋跡でした。 
尚、帯解寺の近くにある龍象寺に陣屋門を移築しています。

藤堂藩は伊賀より西は伊賀部隊により津より東は津藩が中心に行いました。
したがってこの奉行所は伊賀の担当でした。
京都の事は伊賀が中心なので江戸時代最後の山崎の合戦も伊賀部隊の鉄砲隊が発砲し始まっりました。







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Last updated  2020年03月02日 17時53分37秒
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